『リマリックのブラッド・メルドー』のまえがきを公開します

まもなく発売になる新刊(一部書店ではすでに店頭に並び始めています)、牧野直也著『リマリックのブラッド・メルドー』の《はじめに──「ポスト・ジャズ」の時代》を公開します。

メルドー自身の音楽に加えて、新旧のジャズ、さらにはクラシック(とくにピアノと声楽)、ヒップホップ、レゲエ、民族音楽、ロックなどさまざまな音楽を横断的に採り上げ、哲学の用語や議論も援用しながら、「音楽とは何か」という本質的なテーマに迫ろうとした意欲作です。

すぐれた音楽評論であると同時に、ディスクガイドとしてもとても充実していますので、この「はじめに」に興味を惹かれた方は、ぜひお手に取ってご覧になってください。

著者の牧野さんとは音楽之友社で『レゲエ入門』を作って以来の仕事なのですが、出会いの衝撃は忘れられません。牧野さんはある日会社の受付に、「ジャマイカとアイルランドとキューバの音楽紀行を出したい」と3冊分の原稿のぶ厚い束を持っていきなり現れたのです。この3つの音楽を同等のレベルで書ける人なんて滅多にというかたぶん1人もいません。しかも本領はジャズだというのですから、「な、なんだこの人は!?」 と半信半疑でしたが、音楽理解の深さ、正確さなどその実力のほどは『レゲエ入門』が証してくれました。そして、今回いよいよ最初のジャズ論を世に問うことになったわけです。どうぞ思いっきりご期待ください! [鈴]

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はじめに──「ポスト・ジャズ」の時代
 
1990年代の終わり頃、アイルランドで一人のジャズ・ピアニストに出会った。その人の名はブラッド・メルドー。いまはジャズ界を牽引する中心人物の一人として知らぬ者がないほど有名な存在になっているが、当時はまだ初々しい20代の青年だった。滞在していたリマリックという小さな街に彼がやって来て、ライヴを行なったのだ。その邂逅をきっかけに、長い年月をかけて彼の作品を聴き込むことになり、やがてその音楽について語りたくなった。
 それが、この本の縦糸となる主要な物語である。
 背景には、2年余にわたるわたしの放浪に似た世界を巡る旅があった。その最初の地と言っていいアイルランドで彼と出会ったのだから、この物語の成立事情に旅の体験がさまざまな形で影を落としているのも自然なことだ。長い旅の間に培われた眼差しが、この本で紡がれる言葉の細部を支えている。したがって、これは旅とアイルランドの物語でもある。
  一方で、この本は一人のピアニストの音楽的人間像を追ったものであるだけでなく、ひとつのジャズ論であり、さらには音楽論でもある、というように書かれている。
 したがって、話はジャズだけではなく、西洋のクラシック音楽、ヒップホップやドラムンベース、アイルランドの伝統音楽、果ては日本のインディーズのギター系女子たちにまで及ぶ。けれども、ただ単にジャンルの垣根を越えること自体が目的なのではない。それらの深層にある音楽の「湧水池」を探り当て、音楽の地図に時空の厚みを加えるために越境は行なわれている。
 あるいはまた、生演奏をどう捉えるか、パフォーマンスとは何か、即興演奏をどう理解すべきか、音楽を聴くのに適した空間とは、などということを考えるが、それらのいずれもが「音楽とは何か」という問いに結びついているので、その答えは原理的な手つきで語るように心掛けられている。目指されているのは、幾重にも横糸が編み込まれた重層的構造である。
 ジャズ論の裏づけの無いジャズ史や人物伝はつまらない。そして、音源資料へのアクセスが示されていないジャズ論は肝心の「音」が不在で不親切だ。ずっとそう思ってきた。
 したがって、本書では268枚のディスクを簡略な解説とともに紹介した。併せて、参考資料となる本や旅の写真も掲載した。ジャズ論とジャズ史とディスクガイド、この三位一体が実現できていれば本望であるし、その中で一人のピアニストの音楽の特質が奥行きを持って浮かび上がってくるならば言うことはない。読者も、やがてはその音楽と出会うことになるだろう。
 読み進むうちに、ときどきジャズやクラシック音楽について、突き放した厳しい言葉が投げ掛けられているように見えることがあるかもしれない。それは、ジャズが「古典(クラシック)」になったという認識がこちらにあるからで、どちらの音楽も「だいぶ昔に発展を止めてしまっている」という状況の認識を読者に促したいためだ。けっしてそれらの音楽をいま現在やっている演奏家たちを否定しようという意図があるわけではない。古典の世界は過去の叡智が流れ込んだ湖だから、何度でも水を汲みに行くことができる。そこから学べるものは果てしない。
 ジャズが拡張の限界に達してから、すでに数十年が過ぎている。現在にまでつながるその期間を、わたしは「ポスト・ジャズ(ジャズ後)」の時代と呼ぼうと思う。いまも有能な新しい演奏家たちが次々と登場しているのは承知しているが、その誰ひとりとして「自分はジャズを拡張している」と胸を張って言える人はいないはずだ。すでに拡張を終え「反復」の時代に入って久しいのだという思いは強くある。ただし、それはジャズについてだけ言えることではない。音楽のあらゆる局面において円環は閉じられており、先の視えない不透明な状況が続いている。
 音楽をやることは絶対的に正しい、という思いがわたしにはある。「絶対」とか「正しい」という言葉は少しそぐわないが、それは「楽しい」「面白い」「すべてだ!」といった意味だ。子どもの頃にいつも歌を口ずさみ、ヴァイオリンを習い、ギターと出会い、合唱に親しんだ。ただただギターの弦が共鳴しあう響きに耳を傾けていれば幸せだった。自然と旋律が生まれてきて、稚拙ではあっても、それを形あるものにしてゆく作業は何ものにも代え難い至福の時間だった。
 素人未満と自嘲するほど演奏する力があまりにも向上しなかったので、音楽家の道へは進まなかったが、「音」との出会いはわたしの中で絶えることなくずっと生き続けた。だから、例えばいま盛んだという中学や高校での吹奏楽の練習に熱心に取り組んでいる若い人たちの「熱意と集中」を全面的に肯定する。あるいは、どんなジャンルであれ、プロを夢見て猛練習をしている演奏家の卵、仲間うちの楽しみのためゆるゆると練習を重ねているグループ、部屋で独りギターの胴に耳をつけるようにして自分がつま弾く音を聴いている人、それらすべてを肯定する。
 読者の中には、そんな拙劣な演奏力しか持たない者がどうしてプロの演奏家のことをあれこれ言うことができるのか、と思う人もいるかもしれない。それに対する答えはこの本を読んでもらえれば自ずと見えてくるのではないかと思っているが、直截に言えば「音楽に絶対優位という場所はない」という確信があるからだ。一度は「反音楽」(この「反」は「嫌う」や「反対する」ということではなく、音楽が意味や価値を持たない世界という「反対概念」の意)という場所まで考えを煮詰めたうえで、音楽について考えることが音楽を演奏することに対置できるところまで格闘するように歩みを進めてきた。決して尊大な思いでそうするのではないのだ。
 ジャズ・ピアニストの山下洋輔は、若き日の処女単行本『風雲ジャズ帖』(1975年、音楽之友社)で《ほとんどのジャズ演奏者は、「ジャズを語る人間」に対して、本能的な悪意を持っている。(中略)「語られた」ものと、実際のジャズの現場との「天文学的な距離」を演奏者の方ではいつも知っている。ところで、語る側の方では、この距離の遠さを本当に知っているだろうか》(「ジャズについて何を語るか」)と述べている。そして、語りたいなら「ジャズについて語る論理」が追求されるべきだとも記している。
 こういう緊張関係は、わたしは好きだ。この頭脳明晰なピアノ弾きが鋭く直截である分、こちらもはっきりとモノが言えるからだ。まさにその「論理」、音楽そのものについて語ることができる「論理」を探し求めてきた。それがうまく「言葉」にできていることを願うのみだ。
 巻頭に置かれた序論は、現在書き続けている「ポスト・ジャズからの視点」シリーズ(全5巻)全体の序という意味を兼ねている。少し話が難しくなっているが、読んでもらえれば考えの根っこの部分に何があるかは伝わるのではないかと思っている。物語にすっと入ってゆきたい人は、本書の本文である第1章から読み始めてもらってもまったく問題はない。