「Mercure des Arts」に『わが友、シューベルト』の書評掲載

ウェブ批評誌「Mercure des Arts」に堀朋平著『わが友、シューベルト』の書評が掲載されました。評者は西南学院大学国際文化学部教授で哲学や美学を専攻する柿木伸之さん。弊社刊、『細川俊夫 音楽を語る』の訳者でもあります。

Books|わが友、シューベルト|柿木伸之|Mercure des Arts
http://mercuredesarts.com/2023/07/14/books-schubert-kakigi/

「早くから親しみを覚えてきた」というシューベルトのミサ曲第2番ト長調D167の楽譜を見たとき、柿木さんは「特別な感慨」を抱いたと述懐します。

そこには、「一つの聖なる普遍(カトリカ)の/使徒伝来の教会」を信じるという信仰告白の一節が記されていなかった。作曲者が18歳の時に書いたこのミサ曲だけではない。その前の年に書かれた最初のミサ曲(D105)から、死の年に書かれた変ホ長調の最後のミサ曲(D950)に至るまで、この一節には一度も音楽が吹き込まれたことがない。では、なぜシューベルトは三位一体の教義を確かめるうえで欠かせないはずの言葉を、彼のミサ曲に取り入れなかったのだろう。堀朋平の近著『わが友、シューベルト』は、避けられてきたとも言えるこの問題に正面から向き合いながら、その根に、作曲家が同時代人とともに抱えていた虚無の影を見て取っている。

シューベルトはその虚無をかかえながら、教会に代わる共同性をどこにもとめたのか──。柿木さんは著者とともに、他の同時代の作曲家たちから分かつひとつの特徴であるあの「サークル活動」、そのなかから生まれた歌劇《フィエラブラス》に、宗教を超えた友愛と和解をめざす作曲家の姿を見いだします。

自然を、そして友人たちを。そして、愛を満たし、異なったものを結びつけていくものに、もはや「教会」を信じられなくなった──ミサ曲における典礼文の削除は、まずはこのことを暗示していよう──時代における信の場所を見いだしていたのだろうか。いや、その場所を作曲家は、みずから音楽のうちに切り開こうとしていた。

と共感に満ちた「読み」によって著者と手をたずさえながら、「思考の軸が失われ、闇に包まれつつある時代をともに歩む友として」、シューベルトの音楽を聴く歓びを語ってくださっています。