『図書新聞』にて小沼純一さんが『親愛なるレニー』を書評

2月18日付の『図書新聞』に吉原真里著『親愛なるレニー──レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』の書評が掲載されました。

評者は小沼純一さん。「手紙をとおしてみえる愛情と友情──巨匠・バーンスタインの知られざる一エピソードとして、消えてしまったかもしれない交流が日の目をみる」と長いタイトルがついています。

[手紙の]文章が、日本語でなく英語で綴られていることを、想像してみると、どうだろう。すこし感触がちがってこないだろうか。それも、文字のことば、ではなく、声にして発されているとしたら。
 著者はおもう。みずからがみいだした、どうにかしなければただのインクのしみでしかないものが伝える、海をこえてつづけられた友情・愛情を、どうしたらかたちにできるのか。バーンスタインとカズコ、クニ、三人の歳月を、どう整理し、語っていったらいいか。ほかの手段ではなく、やはりことばで、文字で、どうにかするしかない。

手で文字を記し、封筒にいれ、宛名を書き、切手を貼ってポストに投函する。数日から数週間かかって宛先に届く。届いてもすぐ読まれるかどうかはわからない。そうした時差のなか、手紙の書き手と受けとり手がすごす時間がある。紙に丁寧に書かれた筆跡をとおして、著者は愛情を、友情を、読む。ひととひととのあいだにあるものを想像する。みずからが感じているものはそのままではどうしてもこぼれおちてしまうものがある。そのことをよくよく理解しながら。

 手紙をとおしてみえてくる愛情と友情、そのありかたがときにかさなり、ときにずれ、ときに変化するさま──これを著者はたどり、みずからのことばでたちあげようとする。カズコがレニーにむけるもの、クニがレニーにむけるもの、レニーがカズコに、クニにむけるもの、それぞれが違う。その違いを感じとらなくてはならない。こうしたものを感じとらせようとすることばのありようが、ノンフィクションなるものが「感動」をもたらすとするなら、そこのところこそ眼目だ。

この媒体ならではの充実したヴォリュームのなかで、研究者でもあり創作者でもある小沼さんらしく、著者の心のひだにわけいるようなていねいな読みがつづられた、それじたいが感動的な書評でした。ありがとうございます。