アイリッシュ・ミュージックをはじめ、おもにヨーロッパのルーツ音楽の第一人者で、弊社からも『アイルランド音楽──碧(みどり)の島から世界へ』ほかを出版されている音楽ライター、おおしまゆたかさんが、ご自身のブログで『礒山雅随想集 神の降り立つ楽堂にて』(森岡めぐみ 編著/住友生命いずみホール 協力)を大絶賛してくださいました。
『神の降り立つ楽堂にて』礒山雅随想集|クラン・コラ・ブログ(アイルランド音楽の森)
最初、「なぜおおしまさんがこの本を?」と不思議に思ったのですが、途中でバッハのポリフォニーをグレイトフル・デッドのそれになぞらえるあたり、礒山さんが読んだら、もしかしたらすぐにデッドのCDを取り寄せて、なんなら「古楽の楽しみ」でオンエアしてしまったかも、などと妄想がひろがるくらい、この本が最良の読み手を得たことがわかりました。
皆様にはぜひ全文を読んでいただきたいのですが、いくつか「さすが、おおしまさん」と唸ったパラグラフを──
礒山の基本姿勢には共感するところが多いのだが、最も力を入れて、そうだ、そうだよと膝を拳で叩いたのは、この人が音楽をあくまでも同時代のもの、今生きてほざいている、あたしら自身の歓び、哀しみ、怒り、恐怖などを注ぎこみ、共鳴し、浄化するものと捉えていることだ。そうでなければ、300年も前の、生き方も考え方も感じ方も異なる人間の作った作品を今、演奏し、聴く価値はない。若い頃に聴いた誰それは凄かった、今あんな人はいない、という、クラシックに限らずよく見聞するコメントを、感性の老化と切り捨てているのには快哉を叫んだ。そして、その作物、バッハやモーツァルトをはじめとする音楽が、いかに今のあたしらの生活に太くつながっているかを、平明な言葉でさらりと言ってのける。しかもそこに、音楽に初めて感動した体験のみずみずしさと、少年のひたむきな情熱を、いかにも自然にこめる。これはもう神技に近い。
そう、音楽は人間よりも大きなものだ、とはアルタンのマレード・ニ・ウィニーも言っている。音楽は人間が生みだすのだが、人間を超えてゆく。人間が生みだすものが人間を超えてゆくという点では芸術はみなそうだが、音楽はその超え方がとりわけ大きい。音楽の玄妙さ、常識とか、社会規範とか、人工の制約をいとも簡単に解体してしまう音楽の玄妙さはそこに生まれる。人間としてのクオリティの高さが、その人が生む音楽の質の高さにつながらない、つまりろくでなしが崇高で絶妙な音楽を生みだすこともあるのは、そのためだ。それが肌でわかっている礒山はだからとても謙虚だ。音楽の前で人は謙虚にならざるをえないことが、なんの抵抗もなく、すとんと納得される。つまりろくでなしは音楽を演っているその瞬間には、人間の矩を超えているのだ。
ここまでくれば、これがクラシックについて書かれたことはほとんどどうでもよくなる。ジャズについてもロックについても、アイリッシュについてもフラメンコについても、日本やインドの古典音楽についても、どんな音楽にも、礒山の言葉は共鳴してゆく。そう、神は楽堂だけに降り立っていたのではなく、それを呼び降ろした礒山の指にも降りたっている。
最後に「大」の付くオーディオ・マニアでもあるおおしまさんらしく、礒山さんのオーディオ・システムに思いをめぐらせておられますが、ご明察のとおり、礒山さんも「知る人ぞ知る」オーディオ通。二人のオーディオ談義を横で聞いてみたかったなあと思います。
おおしまさん、ありがとうございました!