病跡学の領域の卓越した業績を顕彰する「日本病跡学会賞」に、小林聡幸さんが『音楽と病のポリフォニー──大作曲家の健康生成論』で選ばれました(もうお一方は松田真理子さんで、『芸術と文学の精神世界──病跡学的視点から』晃洋書房が対象)。
小林聡幸さんの受賞の言葉を全文掲載させていただきます。
病跡学会賞を頂き、感謝の念に堪えません。まずはこの栄誉を受賞作品である『音楽と病のポリフォニー』の出版元であるアルテスパブリッシングさんと分かち合いたいと思います。「音楽を愛する人のための出版社」を謳っているアルテスさんは創業12年というまだ若い会社なのですが、発売から時間が経っても価値が下がらない本を出していると大変評価されている出版社です。そんなアルテスさんによって大変美しい本に仕上げていただいたことが今回の受賞につながったと思っています。
この本も10年ばかりかけて、本学会で発表し書き上げた論文を集めたものですが、ロマン派というものが何だったかということと、健康生成ということがバックボーンになっています。書評を寄せて下さった佐藤晋爾先生もご指摘くださっているように、だんだん病気について語らなくなるというひねりがはいっています。
ちょうど先週末、上野で「クリムト展」を見てきました。今回のクリムト展は『ベートーヴェン・フリース』の原寸大複製が展示されているのが売りでした。『ベートーヴェン・フリース』はウィーン分離派がベートーヴェンを讃える展覧会を企画した際に制作されたもので、大会議室くらいの空間の壁三面に絵巻物のように描かれ、ベートーヴェンの第九交響曲がモティーフになっています。左側から幸福への希求が示され、そこに黄金の甲冑をまとった英雄が現れて、正面の敵対する勢力、端的に言えば悪に立ち向かいます。右には竪琴を持った詩神が現れ、歓喜の合唱と、「この接吻を全世界へ」というベートーヴェンが終楽章の歌詞に選んだシラーの詩句が具現化されます。
さてこの『ベートーヴェン・フリース』を目の当たりにしても、私の頭の中にはマーラーの交響曲しか響きません。会場では小さな音でベートーヴェン第九の終楽章が流されていますが、「おお友よ、その音ではない」です。もちろんマーラーとクリムトはウィーンの同時代人で交流もありましたから、影響があっておかしくないのですが、表面的な脈絡を追うかぎり、『ベートーヴェン・フリース』はベートーヴェンにタグ付けされます。他方でこの作品にクリムト個人の葛藤を読みとる向きもあります。自然科学はリニアな考察が美しいですが、病跡学は、というか人間的事象というのは多層的であって、単純な因果関係では結びがたいものです。
以前、本学会で発表したとき、私の恩師の一人である花村誠一先生から「ひねりが足りないね」というコメントを頂いたことがありました。ひねりのないリニアな解釈は案外嘘くさいものです。これはシチュエーションが病跡学と類似していると言われる司法精神鑑定とも共通する課題です。近年、裁判員裁判の導入によって、「わかりやすい裁判」の名の下にわかりにくい枝葉を切り落としリニアな解釈に収束する弊害が指摘されているようです。ネット社会の浸透とともにこうしたわかりやすさの暴力が広まっている社会情勢を感じます。われわれはわかりにくいけれど真実味のあるものを求めていかねばならないのではないでしょうか。
わたしとしては、花村先生の教えを胸に、病跡学の、いや精神医学の白井健三をめざして、四回ひねるまでは着地しないという心意気で、まあ、心意気だけですぐに着地してしまいがちなのですが、もうしばらくジャンプを繰り返してみしようと思っています。
ありがとうございました。
小林さん、おめでとうございました!