すべての音に祝福を
ジョン・ケージ50の言葉

定価:本体1800円[税別]送料:国内無料

  • 四六判・並製 | 212頁
  • 発売日 : 2019年9月10日
  • ISBN 978-4-86559-209-2 C1073
  • ジャンル : 現代音楽/作曲家
  • ブックデザイン:寺井恵司

言葉の作曲家、ジョン・ケージが残した
世界の見方を変える50の言葉!

「雑音でも楽音でも
幸せに調和していない音など
聴いたことがない」
──ジョン・ケージ

ジョン・ケージ研究の第一人者である著者が
人びとを魅了してきた作曲家のユニークな言葉を選び出し、
時代順にその意図や時代背景などを解説することによって、
ジョン・ケージの生涯とともに、思索の移り変わりを
知ることのできる、必読の書き下ろし。

選ばれた50の言葉は音楽に関するものにとどまらず、
芸術、哲学、政治、食……と広範囲に及び、
音楽を通してより良い世界を作ろうと志向した姿を浮き彫りにする。

プロフィール

  • 白石美雪(しらいし・みゆき)
    東京藝術大学大学院音楽研究科修了。専門は音楽学。ジョン・ケージを出発点に20世紀の音楽を幅広く研究するとともに、批評活動を通じて、現代の創作や日本の音楽状況について考察してきた。近年は明治期から昭和期に至る日本の音楽評論の成立もテーマにしている。
    著書に『すべての音に祝福を ジョン・ケージ 50の言葉』(アルテスパブリッシング)、『ジョン・ケージ 混沌ではなくアナーキー』(武蔵野美術大学出版局、第20回吉田秀和賞受賞)、共編著に『音楽論』(武蔵野美術大学出版局)、共著に『音楽用語の基礎知識』(アルテスパブリッシング)、『はじめての音楽史』(音楽之友社)、『武満徹 音の河のゆくえ』(平凡社)ほか、共訳書にディック・ヒギンズ『インター・メディアの詩学』(国書刊行会)など。現在、武蔵野美術大学教授、国立音楽大学非常勤講師。

CONTENTS

新しい耳、おめでとう!

私たちが小声で静かになったら、他の人たちの考えを学ぶ機会が得られるはずだから。

音楽は自己表現ではなく、大文字の表現だと考えている。

自然の繊細さがすべて、ここにはある。

音楽の構成について考えることは、本来の聴取にとって危険な罠となりやすい。

和声と調性が音楽に特有のものであるのとは違い、時間はダンスと音楽の共通分母でした。

打楽器音楽は革命である。(…)こんにち、私たちは音響とリズムの解放のために闘っている。
将来、私たちは電子音楽を耳にして、自由を聴くことになる。

私の信じるところでは、(…)ノイズを使って音楽を作ることは、(…)これからも引き続き増えていき、
ついには電気的な手段の助けを借りて生み出される音楽へと到達する。

まちがっているのは私じゃなくて、ピアノだと判断した。私はピアノを変えてしまうことにした。

二台のプリペアド・ピアノの方が打楽器より規模が大きく柔軟性に富んだ表現方法ですし、
結果はずっと独創的で私らしいものになるでしょう。

私はいくつかの新たな野望を抱いている。第一に、さえぎられない沈黙の曲を作り、
ミューザック株式会社に売ることである。

私は短い沈黙をまとめることによって、個々の楽章を作り上げた。

芸術は作用方法において自然を模倣する。

ブラック・マウンテン・カレッジの場合、芸術は大学とうまく共存できた。
まさにそこにあったものこそが、芸術だったのだから。

すぐに、はっきりと答えよう。ベートーヴェンは間違っていた、そして彼の影響は嘆かわしいほど大きく、
音楽芸術を台無しにしてきたのだ。

ハプニングはブラック・マウンテンでの状況から生まれたものです。そこには多くの人がいました。
――マースがいましたし、デヴィッド・テュードアも、聴く人もいました。

初めてコイン投げをしたとき、これこれの目が出ればいいのに、と思うこともあった。

作曲は「沈黙に音を投げ入れること」となり、私のソナタでは一つの呼吸だったリズムが、
いまでは音と沈黙からなる一つの流れになりつつある。

思うに、問題は多様性を生み出すよう作動するあらゆる特性を、すべて完全に把握することなのだ。

芸術家から街の清掃員まで、さまざまな人たちが大いに楽しんでくれたと思う。

いまや私たちは何かから無へと向かっている。万物は等しくその仏性をもっているので、成功か失敗かを語る術はない。

鈴木博士は笑って言った。「だから私は哲学が好きなのだ。勝つ人は誰もいないから」

吉田は、著者が書き損なっている事実が一つあると言った。今の日本には、大きな尊敬を集めている射手でも、
昼間の明るい光の中でまったく的の中心を射ることができない人がいると。

彼のパズルへの興味が、不確定性のすべてをもたらした。

音楽を書く一つの方法、それはデュシャンを研究することである。

《大ガラス》を見るとき、すごく好きなのは、どこでも自分が望むところに関心を集中できることです。

「マルセル・デュシャンの作品の多くは僕にとって神秘のままなんですよ」と言ったら、
ティーニー・デュシャンは「私にとってもそうよ」と答えました。

音楽とキノコ:二つの言葉はたいていの辞書で隣り合っている。

電子回路の部品からできていようと、頭の中にある同等の「部品」(音階、音程の操作など)からできていようと、
作曲をひとつサウンド・システムの活動とみなすのは無駄な探求に思える。

作用方法における自然と芸術の同一化、完全なる神秘だ。

私たちが偶然住まうことになったこの劇場にある、見るべきもの、聴くべきものに気づくため、
呼吸し、歩き、十分に頭を空っぽにするのだ。

言い換えれば、私が社会に興味があるのは、力のためではなく、協同と喜びのためです。

価値判断といったものは政治的な観念です。大学教育を通じて広まる、
あらゆる価値判断のように、それは政治的なのです。

新しい美術と音楽は秩序づけられた構造の中にある個人の考えを伝えるのではなく、プロセスを実行するものであり、私たちの日々の生活と同じく、知覚(観察と聴取)の良い機会となるのだ。

まず必要なのは音がまさに音であるだけでなく、人びとがまさに人びとであるような音楽だ。
たとえ「作曲家」や「指揮者」であろうと、誰かが決めた規則の支配は受けない。

《ミュージサーカス》で必要な組織は、万国博覧会の組織と同じ種類のものです。

私は統語法のない言語に興味をもつようになっています。

ゴマととうもろこしとオリーヴのオイルがバターの代わり。

なぜ、人びとが新しい発想を恐れるのか、理由がわからない。私なら古い発想を恐れる。

愛国心? それは宇宙へ持っていけ!

まさに音楽こそが、その寛容さから、私を絵画へと引き戻してくれたのです。

いわば、芸術家から自由でありながら、環境との接触のしるしを残している部分、それこそ私が探したいものです。

少しでもアイルランドの血を引いていたら良かったのですが、実際にはそうではありません。

前衛とは精神の柔軟性だ。そして夜のあとに昼が来るように、
政治や教育の餌食にならなければ精神は柔軟になる。

まわりの「沈黙」に対して、一度に一つずつ示される複数の「くっきりと縁どられた」開始と終了、
すなわち一つ一つが聴衆と同じ空間内にある彫刻の展覧会。

私たちはグローバルな状況へと向かっています(…)。
そして、私たちがみんな同じ場所にいる事実、
誰か一人にとっての問題はみんなにとっての問題であるという事実を認めるようになることです。

芸術の目的は心を静め、和らげることなので、心は偶然に生じたことと調和するのである。

一つ一つの音が宇宙の中心にあって、耳を傾ける価値があると思います。

雑音でも楽音でも、幸せに調和していない音など聴いたことがない。

私は(マルセル・デュシャンのすべての音楽作品について考えて)パンドラの箱を開けた。

あとがき