「青年の文章」施主・内田樹さんからの推薦文全文です。

みんなの家。建築家一年生の初仕事

まもなく発売する光嶋裕介著『みんなの家。建築家一年生の初仕事』に、この本の主役・凱風館の施主である思想家・武道家の内田樹さんがお寄せくださった推薦文の全文をアップします。[鈴木]
青年の文章
文=内田樹
 これは僕の道場兼自宅である凱風館という建物が建つまでの流れを光嶋裕介という若い建築家が記録したものである。
 お読みになった方の多くは同じ印象を持たれたと思うけれど、彼は独特の文章を書く。癖のある文章とか、ひねった文章ということではない。こういうふうに書く人が絶えてひさしい「青年の文章」である。
 青年というのは、少年と大人の中間的な様態である。少年らしい無垢さやみずみずしい好奇心をまだ失っていないけれど、すでにそれなりの社会的ポジションに達し、その発言を傾聴され、その構想を物質化できる機会を確保している。
 僕の(勝手な)考えでは、「青年」というのは幕末から明治初年にかけてその「原型」がつくられ、近代日本を牽引し、知性的なあるいは芸術的なイノベーションを担い、いくつかの「戦い」で前線に立たされた後、1960年代末に消滅した。弊衣破帽で天下国家を論じ、詩を吟じ、琴を弾じ、スポーツに興じ、斗酒なお辞せずという「旧制高校生」の姿がその典型的なものである。そのような社会的機能を日本社会が必要としていたときに出現し、必要としなくなったときに姿を消した。 「青年」が姿を消して半世紀近くが閲した。
 「青年」期がなくなったので、日本の男性は「洟垂れの子ども」時代が終わると、間を置かずに「脂ぎったおじさん」になった。だから、それから後の日本社会は「妙に勘定高い子ども」と「幼児的なオヤジ」ばかりで埋め尽くされるようになった。正直言って、かなり見苦しい風景だが、歴史的状況が「そういう社会構成」を求めたのだからしかたがないと諦めていた。
 そしたら、21世紀に入ってしばらくすると、僕のまわりに「青年」たちがひとりまたひとりと登場してきた。少年のような初々しさを失っていないのに「仕事のできる」若者たちである。そんな「青年」をほんとうにひさしぶりに見た。彼らの登場なしではもう立ちゆかないところまで日本のシステムが劣化したという点では痛ましいことだが、もう絶滅したと思っていた「青年」に生きているうちにまた会えたということを僕自身は個人的にはうれしく思っている。
 この本はほんとうにひさしぶりに「日本の青年」が書いた本である。
 イノセントな好奇心と冒険心に駆動された「彼のアイディア」を実現するために、建築家はうるさがたの職人やビジネスマンの懐に入り込み、タフな交渉をし、思いがけない妥協案を提示する。その力業のひとつひとつを通じて、彼は確実に成熟への階梯をのぼり、社会的な実力をつけ、世界を語る新しい語彙を獲得してゆく。
 たいしたものだと思う。
 この本は一軒の家が建つまでのドキュメントとして読んでもたいへん面白いし、専門的にも価値豊かなものだと思うけれど、僕としてはそれ以上に半世紀近くの不在の後、「救国」のために「青年」たちが出現してきたことの喜ばしい徴候として記憶にとどまることを願うのである。