ARTESフレンズ&サポーター通信[vol.001]

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ARTESフレンズ&サポーター通信[vol.033] 2020/01/14発行
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■ご挨拶■
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ARTESフレンズ&サポーターのみなさま、
明けましておめでとうございます。
本年もアルテスパブリッシングをご支援くださいますよう、
どうぞよろしくお願いいたします。

これまでこの通信の編集を担当してくれていた沼倉が、昨年いっぱ
いでアルテスを卒業しました。同じ出版業界で新しい働き場所を得
ての旅立ちです。アルテスでの経験を活かして大きく羽ばたいてく
れるものと期待しています。

さて、アルテス創業10周年の2017年4月に開始した「フレンズ&サ
ポーター制度」。おかげさまで多数の登録をいただいております。
フレンズ&サポーター様限定の割引クーポン(このメール冒頭にコ
ードを記載しています)やサポーター様限定での書籍プレゼントな
どに加え、4年目となる今年からはこの「ARTESフレンズ&サポー
ター通信」での「誌上ブックフェア」やノヴェルティ・グッズなど、
さらにお得でお楽しみいただける企画を考えていきたいと思います
ので、どうぞご期待ください。

それでは、今月号も各人各様のテキストをお楽しみください!

                     (アルテス・木村)

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■CONTENTS■
I.三宮麻由子の楽書探訪
第2回 『求むマエストロ。瓦礫の国の少女より』
三宮麻由子(エッセイスト)

II.漱石とブックデザイン
第22回 『彼岸過迄』
桂川 潤(装丁家)

III.クリエイターのための経営とお金の話
第10回 クリエイターの4分類
福島隆嗣(株式会社プラスグラフ代表)

IV.音楽が本になるとき 第4回
好みと価値判断(後編)
木村 元(アルテスパブリッシング代表)

ex.執筆者プロフィール

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■三宮麻由子の楽書探訪■ 第2回
『求むマエストロ。瓦礫の国の少女より
 ──イラク・ナショナル・ユース・オーケストラの冒険』
(アルテスパブリッシング、2019)        三宮麻由子
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ポール・マカランダン 著/藤井留美 訳『求むマエストロ。瓦礫
の国の少女より──イラク・ナショナル・ユース・オーケストラ
の冒険』(アルテスパブリッシング、2019)

 「明日は攻撃が始まると見られています。なので私たちも“臨
戦態勢”でいきます」
 2003年春、イラク戦争開始前日に行われた昼のチームミーテ
ィングでチーフがそう言った。
 私は25年余り、世界的な通信社で海外の経済ニュースを翻訳す
る業務に従事する一方、エッセイを執筆している。このため普段
は会社員の顔であり、通信社の記者として働いている。あの日の
彼女の言葉はいまも忘れられない。ミーティングでは誰も言葉を
発しなかった。
 翌日、米国によるイラク空爆が始まった。バクダッドからはす
べての報道陣が撤収し、町の随所に残されたカメラが最後の瞬間
まで戦火を伝え続ける状況となった。私たちが流れてくる速報を
打ったり、解説記事を翻訳したりしている傍で、編集部に設置さ
れているモニターからは爆撃の音のみが機械的に流れてきた。人
の声はせず、ひたすら爆音だけが続いた。私は隣の同僚と、「始
まっちゃったんだね」とささやきあった。
 その後も、ニュースでは食欲を失うような翻訳が続き、私たち
もある種のトラウマを抱える日々だった。その後も、イラクに関
するニュースは随時翻訳している。

 本書は、私たちがそんな日々を過ごしていたのと同じ時間に起
きていたことを、現場から伝えてくれるものだった。
 戦後の復興下のイラクでは、それまで育ちつつあった音楽の土
壌は壊滅し、人々は抑圧と恐怖の中で希望を持てずに生きていた。
しかしそんな中でも、エリート教育を受ける機会を得た17歳の
イラク人少女ズハルが、青年オーケストラ「イラク・ナショナル
・ユース・オーケストラ(NYOI)」を結成しようと決意し、声
を上げる。その声は遠くスコットランドのフリー指揮者で本書の
著者ポール・マカランダンに届く。イラク攻撃に反対したスコッ
トランドの国民として、フリーの指揮者として、彼はイラクに攻
撃の償いをする気持ちでズハルの声に答えていく。
 国内のオーディションと審査、苦難に満ちた夏期講習、ドイツ
やフランスのユース・オーケストラとの共演を通じた世界での地
歩獲得と、幾多の苦難に見舞われながらも奇跡とも思える展開で
オーケストラはレベルを上げ、活動範囲を広げていく。
 独学で楽器を学ぼうとするイラクの若者たちは、普段は対立し
ているアラブ人、クルド人といった垣根を越えながら成長し、ク
ラシック音楽の共演に必要な規律や協力の精神を身につけていく。
その才能は、ほぼゼロからの出発にしては世界を驚かせるものだ
った。

 本書はたしかに、苦難を乗り越えて一つのオーケストラがある
程度大成し、役割を終えて文化の担い手を輩出した「奇跡の物
語」である。
 しかし私は、本書は「助ける側と助けられる側の心得」を考え
るうえできわめて貴重な教材にもなっていると思う。
 イスラム教では施しは信徒の義務であり、施しを受ける側は
「あなたに施しという義務をはたさせている」というある種の自
負がある。日本では「やっていただいている側は口答えするな」
という風潮がまだまだ強く、助けていただく側が希望や改善点を
声に出すことはなかなか大変な面がある。しかしイラクの青年た
ちは、スコットランド人という、自国とはまったく関係なさそう
にさえ見える国の人が突然やってきて、旅費から講習費用まです
べて面倒を見て、オケを作らせてくれている状況で、練習には精
一杯励みながらも自己主張をためらわない。
 時間を守るという文化がないために遅刻は日常、リハーサルに
なぜか楽器を持たずにやってくる団員がいるかと思えば、ヨーロ
ッパのハイレベルな演奏に落ち込んだのもつかの間、すぐに立ち
直って踊りくるう。
 ポールは彼らに辟易したりしながらも、けっして見捨てたり切
り捨てたりせず、根気よく彼らと接し、文化の溝を埋めていく。
本書を通じて彼が「助ける側」として発言したぼやきは、「これ
だけやってもらっているのにまだ給料までほしがるか」という愚
痴が一度だけ。このときばかりは勢いで「やっていただいている
分際で口答えするな」めいたことを口ばしったかもしれないが、
それでも彼は、楽団を見捨てなかった。

 助ける側のモチベーションは複雑で、いつも理想だけでは動け
ない。報酬には自己満足も必要だし、信仰のある人にとっては、
天に宝を積んでいるという充実感も報酬の一部となる。助けられ
る側はその現実を受け入れ、無償で労力をつぎ込んでくださる方
に対してはこうした目に見えない報酬をお返しすることしかでき
ない。そのため、人助けという発想が主導的な日本では、助ける
側と助けられる側は上下関係になってしまいがちである。
 キリスト教世界では、人助けは対等な「隣人愛」の行動である
ため、助けられる側にも等しく発言権が認められる。NYOIが一
定の役割を果たすまでに活動できたのは、この対等な関係あって
こそではなかったかと私は思う。助けるという行為は、上から目
線の慈悲だけではどこかで行き詰まるからだ。助けてから、相手
がある程度の力を得たら、今度は自分の足で立っていける方法を
提示し、それでも必要なサポートがあれば提供する。これが助け
る行為の進捗である。したがって、いつまでも同じ種類の助けを
続けることが助けではないということになる。

 本書は、前半は全面的に助ける物語だが、後半から終章にかけ
ては、助けから自立支援へと変遷し、その変化を団員たちが受け
入れて自国で自覚を持って活動し始める物語となっている。
 この物語が奇跡の美談で終っていたとしたら、私はオケの活動
終了から5年を経た現在にこの本を読むことを勧めたかどうか分
からない。しかし、この本はNYOIが実際には事実上解散し、持
続という目標に達しなかったという意味では挫折した物語である
こと、しかしそれでも、オケの存在には大きな価値があったこと、
そしてなにより、助ける側として筆を取ったマカランダン氏が、
実を伴う支援とは何かを音楽を通して世界に問いかけたことによ
って、この本をお勧めしたい。最高な点は、惜しげない支援をマ
カランダン氏自身がハッピーと感じたことだ。

 この本はけっして、海の向こうの「いい話」にとどまっていな
い。現実の日本社会にも深い問いかけを投げているのだ。
 私は全盲の視覚障害(私はシーンレスと呼ぶ)であるため、日
常的に助けを必要とする。大きな介護は要らないが、知らない道
や迷った場所では誘導してもらう、買い物のために商品を言葉で
説明してもらうといった介助はどうしても受けなければならない。
では、私は助けていただく側だから一切希望を述べてはいけない
のだろうか。
 それは違うと思う。より良い配慮を通して共存していくために
も、社会は当事者の声を聞く必要があると思う。そして、いまこ
のときには助けられる側にいる人も、別のところではしっかりと
助ける側、貢献する側に立っているということを、忘れてはなら
ないと思う。
 たとえば、私は日常の助けは必要だが、社会人として仕事をし
ているし、シーンレス関連の啓発講演など、できる貢献は行って
いる。身近な例では友人から身の上相談を受けることが多く、
「○○の母」とあだ名されることもある。こうした場合、私は彼
らを助けている。
 助ける、助けられるの立場は常に流動的であり、最終的にはウ
ィンウィンにできるものと、私は確信している。
 日本では高齢化と多様性が進み、立場を超えて助け合う必要が
ますます高まっている。その状況で、私たちの社会はいま一度、
助ける、助けられるとはどういうことかを自問しなおす必要があ
るのではないか。
 この本は、助けるとは、助けられるとはという本質の活写を通
じて、このウィンウィンの実践例として読むことができる。実際
の物語からはやや時間が経っているが、普遍の問いを内包する教
材として、あらためてお勧めしたい。

[編集担当より]
「こんな本を紹介してほしい!」というご希望がありましたら、
版元や著者からの自薦、読者のみなさんからの他薦問わず、以下
のメールアドレスまでお知らせください。
info@artespublishing.com

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■漱石とブックデザイン■ 第22回
『彼岸過迄』                   桂川 潤
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 『彼岸過迄』は、明治45(1912)年1月1日から4月29日まで
119回、朝日新聞に掲載された。胃潰瘍を押して執筆した『それ
から』『門』の後、漱石は「修善寺の大患」で大吐血し、生死の
境をさまよう。『門』から『彼岸過迄』執筆までには1年半の空
白があるが、その間、病後の衰弱だけでなく、博士号辞退問題、
漱石の肝入りで発足した朝日新聞文芸欄の廃止、漱石を擁護した
東京朝日新聞主筆の池辺三山の辞職、五女雛子(ひなこ)の急死
と、相次ぐ打撃が漱石を苛んだ。漱石は日記に「自分の胃にはひ
ゞが入つた。自分の精神にもひゞが入つた樣な氣がする」(明治
44年12月3日)と記している。

 心身の傷が癒えないまま、漱石は明治45(大正元年:1912)
年の元旦から『彼岸過迄』の連載を開始する。連載にあたって、
漱石は「彼岸過迄に就て」という告知文を書いた。本来なら8月
頃から書くべきところを、暑い盛りに無理をしてはいけない、と
の周囲の説得で執筆を先延ばししてしまった。ようやく元日から
書き始め、まずは「彼岸過迄」くらいまで書き続けられればいい。
かねてから短篇を重ね連ねて一長篇を構成する新聞小説を考えて
いたが、できれば『彼岸過迄』をそんな思惑通りに作り上げてみ
たい、といった内容が記されている。長篇を書き通す気力・体力
が十分ではなかった、ということもあるが、漱石は『彼岸過迄』
で「短篇を連ねて一長篇を構成する」実験を試みた。さらにこの
作品が9月に単行本化された際、「亡児雛子と亡友三山の靈」に
捧げられていることは見逃せない。夏目漱石が深く信頼を寄せた
池辺三山は、漱石を庇って東京朝日新聞を辞職した後、『彼岸過
迄』連載中の大正元年2月28日に心臓病で急逝している。

 『彼岸過迄』の前半は、職にあぶれたインテリ・田川敬太郎が
主人公を務める。友人である須永市蔵の叔父・田口要作に働き口
を相談した敬太郎は、田口から奇妙な探偵役を依頼される。市電
の小川町停留所で降車するある男を尾行せよ、という指示だ。こ
の尾行の過程で記される情景描写と人間観察は、漱石作品のなか
でも出色のものだろう。
 追跡者を見失った敬太郎は、予想外の展開から尾行した相手を
「雨の降る日」に訪ねることになる。しかし、「松本」と名のる
相手は「雨の降らない日に御出を願へますまいか」と面会を断る。
「雨の降る日」の発端となった松本の娘・宵子の不慮の死は、現
実の雛子の死を色濃く映し、漱石自身の苦悶をにじませている。
 不可解な展開を見せる前半だが、回を追って、松本が田口の義
弟であること、停留所で松本と待ちあわせていた若い女は田口の
長女・千代子であること、千代子は須永市蔵と深い縁があること
など、秘められた謎が解き明かされていく。このあたり、新聞連
載として心憎い仕掛けだ。松本の登場を機に、物語は大きく流れ
を変え、第5章「須永の話」以降は、敬太郎の友人である須永市
蔵が主人公となり、千代子との複雑な関係と嫉妬をはらんだ恋愛
感情、そしてその破局が描かれていく。小説の核心はこの後半部
分で、人間心理の深淵をうかがうような展開は、次作『行人』、
さらには『こゝろ』を予感させる。
 物語全体は探訪〔*明治期の語。警察や新聞社などで真相を探
るために働く外回り〕役を務める敬太郎の見聞という形をとって
いるが、波乱の展開はさておき、「敬太郎の冒險は物語に始まつ
て物語に終つた(中略)彼は遂に其(その)中に這入つて、何事
も演じ得ない門外漢に似てゐた」とする「結末」に、読み手は突
き放されたような当惑を抱くのではなかろうか。異質な短篇をつ
なぎ合わせた構成には、やや無理があり、漱石の心身の回復が十
分ではなかったことを感じざるを得ない。いずれにせよ一種独特
の読後感を残す作品だ。

 さて、作品の内容についてはこの程度にとどめ、『彼岸過迄』
の装幀を見ていこう。大正元年(1912)9月15日、春陽堂の刊行。
菊判、函付で橋口五葉が装幀。初刷部数は2,200部で、定価1円
50銭。印刷は『三四郎』以来の芝区愛宕町 東洋印刷株式會社が
担当し、本文書体は築地体5号活字の前期・後期の両タイプが混
在している。表紙はクリーム色の上質紙に木版彩色刷。函は青鼠
色の染紙に罫で囲った標題を題簽で貼っている。『門』と同様、
見返しには何も刷られていない。本扉はグリーン・グレーで駱駝
のカットと標題と「漱石著」の文字。篆書をやや崩したような書
体で、駱駝の画とあいまってエキゾチックな印象を与える。

 門生の森田草平は「夏目漱石作品の装釘」で、『彼岸過迄』の
装幀について、以下のように記している。
「大正元年九月の發行に係り、同じく〔橋口〕五葉氏の装釘であ
る。表紙は裏表とも一本の木の下に片肌を脱いだ女。それに鳥と
魚をあしらつて、上端と下端に十二支の動物が描いてある。その
意味はわからない」

 『彼岸過迄』の表紙は、五葉独特のシンメトリカルな構図で、
ステンドグラスのような色彩と構成による装飾美を彩なしている。
インド風の「片肌を脱いだ女」は、五葉が明治40(190 7)年に
東京勧業博覧会に出品し、図案部で2等賞を獲得した「孔雀と印
度女」(油彩)を彷彿とさせ、表紙に描かれた鳥と裏表紙の魚の
図は「放生」(ほうじょう=捕らえた生き物を逃がしてやること。
仏教の善行の一つ)を思わせる。森田が訝しむように、「十二
支」のイメージと作品世界との関連は、今ひとつわからない。

 『それから』『門』では、五葉の装幀について何も語らなかっ
た漱石だが、大正元年(1912)9月22日に笹川種郎(たねお、号
は臨風:歴史家、評論家、俳人)宛に『彼岸過迄』を贈った際、
漱石は「小生監督不行届(ふゆきとどき)なりしため裝禎〔マ
マ〕甚(はなは)だまづく候」と、意外とも思える添え書きをし
ている。五葉らしい装飾美に満ちた『彼岸過迄』の表紙も、漱石
の目には、「亡児雛子と亡友三山の靈」に捧げる書として、あま
りに華美と映ったのだろうか。
 さらに漱石は、告知文「彼岸過迄に就て」で、「久し振りだか
ら成るべく面白いものを書かなければ済まない」としながらも、
「たゞ自分は自分であるといふ信念を持つてゐる(中略)自分は
又自分の作物(さくぶつ)を新しい新しいと吹聽する事も好まな
い。今の世に無暗(むやみ)に新しがつてゐるものは三越呉服店
とヤンキーと夫(それ)から文壇に於る一部の作家と評家(ひょ
うか)だらうと自分はとうから考へてゐる」と記している。『彼
岸過迄』執筆の前年、明治44(1911)年に、三越呉服店の懸賞
広告画に応募した五葉は、『虞美人艸』のヒロイン藤尾を思わせ
る美女を描いた「此美人」で一等と破格の賞金千円(1円は現在の
1万円以上、千円は1千万円以上に相当)を獲得し、一躍時の人
となっていた。「彼岸過迄に就て」で三越呉服店を批判し、さら
に『彼岸過迄』の「裝禎甚だまづく候」と記した漱石の筆致には、
あきらかに五葉への批判がにじんでいる。五葉の装飾美と漱石の
作品世界は、はっきりその方向を異にしていった。

〈参考文献〉
「夏目漱石作品の装釘」森田草平、『圖書館雜誌』日本圖書館協
會発行 昭和13年9月号〔第32巻第9号〕
『橋口五葉 装飾への情熱』西山純子=著/東京美術
『夏目漱石(下)』小宮豊隆=著/岩波文庫
『橋口五葉の装釘本』岩切信一郎=著/沖積舎
『名著複刻 漱石文学館 解説』日本近代文学館=編・刊
『漱石全集 第13巻 日記 及 斷片』岩波書店(1966年)
『漱石全集 第14巻 書簡集』岩波書店(1966年)
『漱石全集 第15巻 續書簡集』岩波書店(1967年)
『増補改訂 漱石研究年表』荒正人=編/集英社

[編集担当より]
先月号の当連載見出しで連載回数を「第20回」と記しましたが、
「第21回」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。

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■クリエイターのための経営とお金の話■ 第10回
クリエイターの4分類
                         福島隆嗣
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さて、前回まではクリエイターとして、どのような起業していく
かの「創業期」についてお伝えしてきました。
今回からは「スタート期」。この時期にどのようなことを念頭に
おいて進めていけばよいかということをお伝えしていきたいと思
います。
スタート期にはまずは稼ぐことがたいせつなのですが、同時に、
自営業独特のお金のルールや感覚を身に付け、経営のお金の基本
を把握する必要があります。

「自営業独特のお金のルールや感覚」をお伝えするにあたって、
どのような方を対象としているかを先に整理しておきましょう。
まず、経営規模としては、ひとりでフリーランスの自営業者とし
てやっている人から、最大10人ほどのスタッフを抱える規模の会
社を経営している人に向けたものとなります。
また、デザイナー、ライター、カメラマン、エンジニア、音楽レ
ーベルなど、いわゆるクリエイターと分類される仕事をされてい
る方々については、おのおの手がけている仕事がまったく異なり、
お金の稼ぎ方、使い方、考え方なども異なります。そのため、手
がける経営のスタイル別にいくつかのタイプに分ける必要があり
ます。

◎クリエイターには4つの経営タイプがある

クリエイターの経営スタイルといっても、ここでは「お金の動
き」を中心に分けることになりますが、フォーカスするポイント
として考えられるのは以下の点です。

・ひとりでやるか、組織でやるか
・売上や支出が多いのか、少ないのか
・お金の流れがシンプルな仕事か、複雑な仕事か

これらのポイントをふまえて、あくまで「お金の動き」を中心に
考えて、なかば強引に分類してみると、クリエイターの経営スタ
イルは次の4つのタイプに分類できます。

(1)フリーランス系
一般的にクリエイターといわれてイメージされやすいのが、この
「フリーランス系」です。業種的にはデザイナー、ライター、カ
メラマンといった「技術を売る仕事」で、代理店やプロダクショ
ンから仕事を受注し、基本的にはひとりで仕事を完了させること
が可能な仕事のスタイルの人ですね。
とくに大きな投資も必要とせず、主だった経費などがかからない
ことも特徴なので、起業もしやすく、まずはフリーランスの「個
人事業主」としてスタートすることが多いのですが、なんでもひ
とりでこなす器用さからか、確定申告も自分でやっていて、その
時期になると「たいへんだ、たいへんだ」「お金のこと、わから
ない」と言っている人をたくさん見かけます。
といっても、お金の流れはいたってシンプルで、納品ごとに請求
したものが入金され、多少経費で出ていって、残ったお金が全部
自分の取り分といった、「儲けがわかりやすい」のも特徴です。
売上規模でいうと、年商300万円~1000万円くらいの範囲の人が
多いでしょうか。なかには1500万円や2000万円など到達するそ
うとう優秀な人もいますから、フリーランスの「個人事業主」と
いっても、稼げないということはありませんし、なによりコスト
がかからないので、しっかりとお金を残すことも可能です。
ただ、経営を誰にも管理されないという自由さがあるからか、お
金管理を放ったらかしにする人も多く、いい悪いの判断はむずか
しいところですが、たくさん稼いでいても散財したり、税金で持
っていかれたり、管理が最適化されていないことから、「お金の
ことがわからない」と不安を抱える人も多くみられます。

(2)マネジメント系
業種的には「フリーランス系」と同様に、技術を売る仕事になる
のですが、特徴としてはひとりで仕事を完了させるのではなく、
代理店などから「元請け」として受注し、自社のスタッフや外部
のクリエイターなど複数の人を使ってディレクションしていく人。
いわゆるデザイン会社や編集プロダクションをイメージしていた
だければわかりやすいと思います。とうぜんその仕事のスタイル
だけでなく、お金の流れそのものが「フリーランス系」とは異な
ったスタイルになります。
このスタイルの場合、一般的に売上や扱うお金の金額も大きくな
るので、効率性を考えて、組織として「法人化」している場合が
多く、経営やお金にかんしても意識が高く、偏見かもしれません
が誠実で真面目な方が多いようです。
ただ、かかわる人との良好な関係をだいじにする感覚が強いため
か、どちらかというと自分のことは後回しで他人を優先し、お金
をきちんと分配するということに意識が向く傾向が多いので、稼
いでいても意外とお金が貯まっていないと感じることがあります。
売上規模でいうと、年商1000万円~1億円と経営規模によって千
差万別です。もちろん人と協力して進める仕事なので、きちんと
ディレクションできれば「マネジメント系」は、「フリーランス
系」と違って、売上の限界というものはありません。ですので、
それなりの年商を稼ぐ人はほとんどこのスタイルをとっています。
お金の流れも比較的シンプルな業態ですが、扱うお金も大きかっ
たり、組織なので、請求して入金されたお金が全部自分の取り分
になるわけではなく、スタッフの給料や事務所家賃といった固定
費など、思ったより運営コストがかかるので、「フリーランス
系」よりも、よりきちんとお金を管理することが必要となってく
る経営スタイルです。

(3)クラフト系
この名前にまとめるのも少し強引ですが、基本的にはひとり、あ
るいは小規模で「ものづくり」の活動をしている人のことです。
たとえば、家具や陶芸などの職人系の人であるとか服飾デザイナ
ー、文具や小物を作って販売している人など、それほど大きなお
金は動かないけれど、材料を仕入れたり、ネットで売ったりと、
お金の動きじたいは少し複雑な業態です。
売上規模でいうと、年商500万円~2000万円ていどの範囲が多い
と思いますが、儲けとしては材料費などもさまざまですし、手が
ける仕事によって利益率も異なり、いちがいにはいえません。た
だ、こういった仕事の特徴としては、急にヒット作が出て売上が
上がるときがあったり、その反動で翌年は急に売上が落ちたりと
いうことがあります。
もちろんどんな経営スタイルをとっていても、売上の浮き沈みは
つきものですが、「クラフト系」についてはよりその傾向が強い
ように感じます。ですので、より長期的な視野でお金を管理して
いく意識が必要だといえるでしょう。

(4)プロダクト系
最後は、出版社や音楽レーベル、お酒の製造、映像コンテンツの
開発など、一般的に業種分類をすれば、いわゆる「製造業」に該
当する人が属するのが「プロダクト系」です。「クラフト系」と
似ていますが、より規模が大きなビジネスですね。
先に投資金として比較的大きなお金と扱うビジネスが多いので、
それにともなってお金を借りることも多く、組織運営が複雑だっ
たり、入金や支払いのタイミングが複雑だったり、いろいろと盛
りだくさんの内容です。
売上規模も業種によりますが、「クラフト系」に比べ、作り手よ
りも作品が顔となって独り歩きすることが多いので、たとえ少数
精鋭で運営していても年商3000万円~1億円を超えるなど売上規
模は大きく膨らみます。ただ、ふたを開けてみるとじつは儲けは
少なかったり、そもそも儲かっているかどうかも不明だったりと、
もっとも経営とお金についての判断がむずかしいのが、この「プ
ロダクト系」の特徴です。
また、「プロダクト系」は、製造コストが先にかかって入金まで
に時間がかかるケースが多いため、お金を借りることが多々あり、
その点で比較的リスクもあるといえます。お金についての基本的
な知識や経営を俯瞰して見る力が必要なのですが、作品づくりや
製造に時間を取られて、なかなかお金管理に意識を向けることが
できない場合もあります。そういった状況でお金管理していくた
めには、お金を借りるパターンを知ることや、経営状況をどのポ
イントで把握していたらよいかなど、最低限必要な管理方法を独
自に構築していく必要があります。

◎たいせつなことはタイプ別に最適化をはかること

さて、この4つの経営タイプのうち、みなさんはどれかに該当さ
れたでしょうか?
自分がどのタイプに属するか明確に区分できる人もいれば、中間
に属する人、複数のタイプを掛け持ちしている人などさまざまだ
と思います。
「どういった経営タイプがいいのですか?」「どれが儲かるので
すか?」と質問を受けることがありますが、どれがいいとか悪い
とかいうことはいっさいありません。クリエイターとして起業す
るときに、自分はどの分類で行くなどと考えて始めるわけではあ
りませんから、あくまでも経営のスタイルによって異なる「お金
の動き」から結果的に分類しているだけです。

このように、経営タイプによって、お金の稼ぎ方、使い方、管理
のしかたなどが異なりますので、それぞれのタイプでそれぞれの
ステージにあった考え方をする必要があります。
ただし、どのタイプであっても、お金を使ったり、残った利益で
貯金したり、積み立てたり、税金を払ったり、将来のために保険
に入ったり、積極的な投資をしてみたり……などなど、バランス
を考え、どうやって経営を継続させていくかで頭を使っていかな
ければならない、という点では同じです。
ですから、それぞれのタイプにあったかたちで、経営やお金の管
理を最適化し、「お金のことがわからない」ままに感覚だけで経
営を進めないように、経営のアウトラインを理解して、悩まずに
判断できる意識をつくっておくことがたいせつです。

[編集担当より]
先月号の当連載見出しで連載回数を「第8回」と記しましたが、
「第9回」の誤りでした。お詫びして訂正いたします。

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■音楽が本になるとき■ 第4回
好みと価値判断(後編)              木村 元
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前回は、わたしが大学受験のときに聴いていたハンス=マルティ
ン・リンデによるヘンデルのリコーダー・ソナタの話から始まっ
て、「好み」で音楽を聴くことと、音楽について「価値判断」を
することの違いについて述べた。

     * * *

ここでいったん音楽から離れて、今年7月に30人以上の犠牲者を
出した京都アニメーション放火事件の話をしてみたい。衝撃的な
事件だったから、犯人のパーソナリティや事件の背景についさま
ざまな言説がなされたが、そのなかでウェブマガジン「現代ビジ
ネス」に掲載された御田寺圭による論考が心にとまった。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68498

御田寺は、みずからも火災による重傷を負った犯人が、治療にあ
たった医療スタッフにたいして「人からこんなに優しくしてもら
ったことは、今までなかった」と感謝の言葉を伝えた、というエ
ピソードにフォーカスしてこのように述べる。

「人の「やさしさ」は無限に湧き出すものではない。有限のリソ
ースである。また、個々人がそれぞれに持つ「やさしさ」は、こ
の社会ではだれに手渡すかを自由に決めてよいことになっている。
分け与える対象を第三者に強制的に決定されるようなことはない。
その結果として、多くの人から「やさしさ」をたくさん集められ
る人と、だれからも「やさしさ」を与えてもらえない人へと、ゆ
るやかに二極化していく。私たちは、自らが持つ有限の「やさし
さ」をだれに配るべきか、つねづね慎重に見定めている。私たち
は「やさしさ」を道行く人へ適当に与えたりしない。自分の「や
さしさ」を、もっとも喜んでくれる人に与えたいし、もっとも見
返りが大きそうな人に与えたいと考える。私たちは「やさしさ」
を一種の貨幣のように扱っている」(御田寺圭「回復した京アニ
放火容疑者は、なぜ「優しさ」についてまず語ったのか」、現代
ビジネス、2019年11月18日)

つまり、やさしさというものはある特定の対象にあたえられるも
のであり、逆にいえば、それ以外の対象にたいしては、「やさし
さをあたえない」ということが、ひとつの価値判断として下され
る、ということだ。身もふたもないけれども、実感として説得力
はある。

われわれはたとえば自分の家族に向ける愛情と、その他の人々に
向けるそれとを、ふつう区別するものだ。肉親にたいする愛情は
無条件であり、それ以外の人にたいしては、自分との関係性や利
害などによって(多くの場合は無意識に)濃淡をつけている。

おそらく、容疑者は肉親や近しい人びとからそのような愛情を向
けられることがなかった、あるいは向けられていてもそれを自覚
できないまま、それまでの人生を生きてきたのだろう。だから、
事件の真相解明のためとはいえ、自分ひとりに向けられた医療ス
タッフの献身を「やさしさ」と受けとめ、素直に感動したのだろ
う。

だが、ほんとうに「やさしさ」とは「無限に湧き出すもの」でな
く「有限のリソース」なのだろうか。

たしかに、特定の対象にたいして向けられる愛情には、濃淡があ
るだろう。だが、なんら対象をもたない「やさしさ」というもの
もあるのではないだろうか。言い方を換えれば、「やさしさ」と
はほんらい「あたえる/あたえられる」というかたちで存在する
ものではなく、「やさしくある」という自足したかたちで存在す
るものなのではないか。

御田寺はこうも述べている。

「容疑者は、アニメで描かれた「この世のどこかには掛け値なし
のやさしさがある」というメッセージに勇気づけられたり、元気
づけられたり、励まされたりはしなかったのではないだろうか。
架空の存在が「やさしさ」を交換しあっている姿ですら、自分の
みじめさを相対的に浮き彫りにするものであるかのように感じた
のではないだろうか。それほど容疑者は「やさしさ」に飢えてい
たし、「やさしさの与えられない自分」に苦しんでいたのかもし
れない。人は「やさしさの不在」ではなく「やさしさの偏在」に
よって深く傷つく。時として「やさしさ」が自分に与えられない
ことを恨む」(同上)

容疑者は「やさしさ」を、なんらかの対象を必要とする他動詞的
なものとしてしかとらえられなかった。アニメにおいて描かれる
「掛け値なしのやさしさ」を、「つねに誰にたいしても同じよう
にやさしさをあたえること」として受け止めるか、「対象にかか
わらず、つねにやさしくあること」として認識するかは、同じよ
うでいてじつはまったく異なることである。前者においては、
「その掛け値なしのやさしさからも除外されている自分」という
意識が顕在化するが(「やさしさの不在」「やさしさの偏在」)、
後者においては、みずからも発信源になりえるという自動詞的な
意識が前景化する。

幼児は親の愛情が他のきょうだいに向けられているとき、それを
奪い返そうとする。親の愛情というものが、自分たちひとりひと
りを対象とする「有限のリソース」だという意識があるからだ。
ただ、長じるにしたがって、親の愛情が増えたり減ったりするも
のでないことに気づき、みずからも対象にかかわらず「やさしく
ある」ことをおぼえるものだ。

この人は好き、この人は嫌い、と対象によって濃淡を意識しなが
ら、人は他者を愛し「やさしさ」を向ける。その濃淡のついた感
情は、じつは「愛」や「やさしさ」というよりも、「好み」とい
ったほうがいいものである。人は成長とともに、対象のいかんに
かかわらず、みずから「愛情深くある」「やさしくある」という
態度を身につけて、「おとな」になっていくのである。

もちろん、いつまでたっても自分の子どもは他人の子どもよりも
かわいいものだ。ただ、自分の子どもにたいしても他人の子ども
にたいしても、同じように「やさしくある」ことは可能だ。前代
未聞の残虐な犯罪の容疑に問われている人物に、医療スタッフが
無私の献身を示すことができるように。

     * * *

受験勉強をしながらリンデのヘンデルを聴いていた時期から、ブ
リュッヘンとの衝撃的な出会いをへて、長く遠く音楽の旅を続け
てきた間に、わたしの価値観はいくつもの変遷をともないながら、
ずいぶん変化してきた。でも、「あのときのリンデ」は変わらな
い。ある一時期ともに過ごし濃密な関係を築いた同級生のような
もので、それはいつまでもわたしの音楽体験の根っこにあって揺
らぐことはない。リンデのヘンデルを聴くとき、わたしの心のな
かに「価値判断」は生じないのである。

前回も書いたが、「好み」は感情である。感情とは特定の対象に
向けられるものであり、それを意識的にコントロールするのはむ
ずかしい。対象から感情を引き剥がすことはできないのである。

感情(passion)は受動的(passiv)なものだが、対して価値判
断は自発的なものである。自分が対象のなかに価値を探り出し、
それを他の対象に照らし合わせ、結びつけ、新たな価値体系にマ
ッピングしていくこと──それはきわめて積極的ないとなみだ。
参照されるひとつひとつの対象には好悪の感情が避けがたく染み
ついているが、価値体系のマッピングは純粋に内省的で理性的な
行為だから、対象への感情とはほんらいかかわりのないものだ
(ほんらい個別の対象には向けられることのないはずの価値判断
を、個別の対象に向けてしまうことによって起こるのが、ヘイト
・クライムやバックラッシュなどであろう)。

ある特定の音楽が気に入れば、それについてより詳しく知りたい
という気持ちが自然に起こるだろう。ただそのときに、その音楽
そのものに拘泥することなく、それが触発し、そこから始まる道
を見つけ、その音楽とともに歩むことができれば──それはその
音楽が内に胚胎する可能性を現実に花開かせるという意味で、ひ
とつの倫理的といってもいい営為になりうるのではないだろうか。

別のことばでいえば、そのようにしてしか、わたしたちはものご
とに価値判断をくだすことができない。「好み」は対象に向けて
もいい、しかし「価値判断」はともに歩むことによってしか下す
ことのできないものなのだ。愛情ややさしさを対象に向けるので
はなく、その対象に寄り添いつつも、みずから愛情深く、やさし
くあるという姿勢で示すべきであるのと同じように。

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■執筆者プロフィール■

三宮麻由子
エッセイスト。東京都生まれ。4歳で失明。日本初の全盲生一般
高校留学生で渡米。上智大学仏文科卒、同大学院修士号取得。外
資系通信社でニュース翻訳勤務、一方エッセイ執筆、ピアノ演奏
・講演も。
『鳥が教えてくれた空』『そっと耳を澄ませば』(日本エッセイ
ストクラブ賞受賞)、『世界でただ一つの読書』、絵本など著書
多数。

桂川 潤
装丁家、イラストレーター。1958年東京生まれ。立教大学大学院
文学研究科修了。佐藤正午『月の満ち欠け』『吉村昭歴史小説集
成』等、主に人文書・文芸書の装丁を手がける。著書に『装丁、あ
れこれ』(彩流社、2018年)、共著書に『本は、これから』(池
澤夏樹編/岩波新書)など。
Twitter: https://twitter.com/jun_soutei
Website: http://www.asahi-net.or.jp/~pd4j-ktrg/

福島隆嗣
1976年大阪府生まれ。2000年大阪芸術大学芸術学部卒業。
会計事務所、広告制作会社を経て、2007年に株式会社プラスグラ
フを設立。
デザイナーや編集者、ライターやカメラマンといったクリエイター
の会計サポートやプランニング、専門家への代理対応など、 お金
関連のディレクションを行うマネージャー&エージェントとして
数多くのクリエイターのマネジメントを支援する。
WEB: http://www.plusgraph.co.jp
WEB: https://plusgraph-ca.jp

木村 元
1964年京都生まれ。1988年上智大学文学部哲学科卒業。同年株
式会社音楽之友社に入社、一貫して音楽書籍編集に従事し200点
を超える書籍を担当。2007年3月同社を退職。2007年4月株式会
社アルテスパブリッシングを設立。国立音楽大学評議員。北とぴ
あ国際音楽祭アドバイザー。
https://www.facebook.com/gen.kimura

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ARTESフレンズ&サポーター通信[vol.033](毎月1回発行)
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