ARTESフレンズ&サポーター通信[vol.001]

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ARTESフレンズ&サポーター通信[vol.001] 2017/5/9発行
アルテス・フレンズ&サポーター始動!
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■ご挨拶■
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音楽を愛する人のための出版社、アルテスパブリッシングは、おかげさまで2017年4月5日に創業10周年を迎えました。これまでお力添えをくださった皆さまに、スタッフ一同、心から御礼を申し上げます。
10周年を機にアルテスを支えていって下さる無料/有料の会員を募り、アルテスとともにこれからも末永く音楽と本とを楽しんでいただけるよう、様々なサービスを用意しました。上記のクーポンもそのひとつですので、ぜひご利用ください。
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さて、すでにご案内しましたように、アルテス・フレンズ、サポーターの皆さま限定のメルマガ、「アルテス・フレンズ&サポーター通信」を毎月第2火曜日に発行します。
アルテス代表の鈴木・木村に加え、スペシャル・ゲストとして長年の大切な仲間である夏葉社代表・島田潤一郎さんをお迎えして、ここでしか読めない/書けない連載やエッセイをお届けしていきますので、どうぞご期待ください。
とはいえ、ひっそりと楽しんでいただきながら、「アルテスのメルマガ、面白いらしいよ…」などと周囲の方々に宣伝していただける、そんなメールマガジンを目指しておりますので、秘密結社の暗号通信のようなものとは思わず、お気軽に楽しんでいただけますと幸いです。

というわけで、前口上が長くなりましたが、以下の目次から各人渾身のテキストをどうぞお楽しみください!
                     (アルテス・沼倉)
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■CONTENTS■
I.子どもたちとサツマイモ 第1回
島田潤一郎(夏葉社代表)

II.優柔不断日記「坂本龍一『async』を聴く」 
鈴木 茂(アルテスパブリッシング代表)

III.music・book・education #001「泣くのは恥ずかしい。」
木村 元(アルテスパブリッシング代表)

ex.執筆者プロフィール
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■子どもたちとサツマイモ■
第1回                      島田潤一郎
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物心ついたときから、子どもがほしかった。ひとりっ子だったからかもしれない。息子とキャッチボールをすることにあこがれていた。
しかし大人になり、仕事をするようになって、子どものことはすっかり忘れてしまった。それよりも自分のことで手いっぱいになった。仕事だけではない。趣味のこと。友人たちとのこと。これからの自分に残された可能性のこと。
38歳になって、つきあっていた彼女のお腹に子どもが宿ったことを知った。冬の日だった。
「たぶん子どもができたと思うの」
ぼくはびっくりした。
彼女はぼくより2つ年上で、40歳だった。お互い子どもができたらいいなぐらいには思っていたが、本当にできるとは思っていなかった。
彼女は駅前のドラッグストアで検査キットを買い、ぼくの住むアパートでそれを試した。
「ほらほら」
妊娠を示す青いラインがくっきり出ていた。

彼女はぼくの仕事場の近くの本屋さんでアルバイトをしていた。それまでは恋人同士であったが、その日を境に急に父親と母親のようになった。
ぼくは歩いていても、自分を父だと思うのだった。自動販売機で缶コーヒーを買っていても、商店街の横断歩道で信号を待っていても、そのことが頭を離れなくなった。
「ぼくはあと十月もすれば父になるのだ」
そんなことばかりを思っていると、約40年前、同じように父になる日を控えたぼくの父の心が身近に感じられて、懐かしい気持ちにもなった。
1976年、名古屋の洋服店で紳士服を売りながら子どもの誕生を待っていたぼくの父。

とはいえ、妻の年齢を考えると、流産の心配があった。彼女は月に一度、自宅近くの産婦人科で検診を受けるようになり、ぼくはそれが気になって、その日が来るごとに仕事を早く切り上げて、彼女の住む町へと向かった。
ぼくは駅近くのレストランで1000円くらいのスパゲティやオムライスを食べながら、「どうだった?」と彼女に聞いた。彼女は胎内にいる子どもの写真を見せてくれた。
「これが鼻で、これが手らしいよ」
へええ、と思った。
「かわいいよね」
彼女はそういうが、ぼくにはそんなにかわいいとは思えなかった。
でも「かわいい」といった。

心配ごとはもうひとつあった。それは障害の可能性だった。40歳を超えると百人にひとりの割合で染色体に異常がある子どもが産まれるとインターネットに書いてあった。つまり、ダウン症ということだ。
当初はまったく気にしていなかった。しかしインターネットで調べる回数に比例して、我が子には障害があるのかもしれないと思うようになった。
どんな子どもが生まれてきても愛するつもりであった。しかし、ぼくと彼女が死んだあとにその子がひとりで生きていくことを思うと、胸がギュっと痛むのだった。
なにもない風景のなかに、幼い顔のままの4、50歳くらいのひとが、ひとりぽつんと立っている。ぼくはそのことを想像するたびに、夜、眠れなくなった。

3ヶ月の安定期を越え、簡易検査をしようよ、といいだしたのは、想像に苦しむぼくのほうだった。
彼女は、うんわかった、といって、さっそく血液検査を受けた。結果は2週間後にやってきた。37%の確率で障害があるということだった。
彼女も、どうしていいのかわからない、という顔をしていた。ぼくは、大丈夫だよ、といって彼女を慰めるべき立場にいたが、彼女の目を見つめることぐらいしかできなかった。
本当なら、すぐにでも目を離し、自分の殻のなかにとじこもってしまいたかった。でも、ぼくは彼女の夫となる男だった。
ぼくはお腹に力を入れて、「大丈夫だよ。全部うまくいくよ」といった。
 
春になり、彼女のお腹も目立ちはじめていた。それまでは細かったお腹が徐々に膨らんでいくことが奇跡のようだった。
しかし、それはまだ、ぼくと彼女しか知らないことだった。ぼくたちは結婚も、一緒に住むことさえ、まだしていなかった。
血液検査の結果がよくなかったので、ぼくと彼女は次の段階に進むかどうかを決断しなければならなかった。
選択肢は3つだった。障害がないと信じて、そのまま胎内で子どもが育つのを待つか、20数万円を払って、血液採取による新型出生前診断を受けるか、それとも、10数万円を払って羊水検査を受けるか。
ぼくは、自分より頭がよくて、人間性がしっかりしているひとのことを思い浮かべ、彼ならばどうするだろう、と考えた。
しかしもちろん、そんなことを思っても、こたえには近づけなかった。
子どもを堕ろすということをもまた選択肢のひとつだった。そしてそれには、はっきりとした期限があった。子どもに障害があるとわかった両親のほとんどが中絶を選んでいることは、新聞で読んで知っていた。真っ暗闇のなかに閉じ込められている。そんな気分だった。
新型出生前診断を受けられる病院は限られていた。そして、ぼくはひとりで出版社を経営していて(だからだともいえるが)、お金がなかった。2014年の6月、彼女は信濃町にある大きな大学病院で羊水前検査を受けた。
その日は、ふたりでタクシーでぼくの住むアパートに戻った。彼女はぐったりと疲れていて、部屋に入るなり横になって眠った。
ぼくの部屋には、彼女のお腹に子どもが宿っと知ったときに買ったクマのぬいぐるみがあった。ぼくには、それが子どもそのもののように見えた。泣いてしまいたかった。

それから2週間後の蒸し暑い日、ふたりで再び大学病院に行った。
検査の結果を聞くためだった。
待合室で名前を呼ばれるのを待っていると、一秒一秒が永遠のように感じられた。と同時に、未来のどこか遠くの地点から、ぼくと彼女の姿が客観的に見えて、あのときぼくと彼女はひとの少ない待合室に座って、結果を聞くのを待っていたのだ、とそんなことを思った。
ぼくたちと同じ境遇にいるだろうカップルが2組いた。だれも、あまりしゃべらなかった。館内放送で「島田さん。9番の診察室にお入りください」と呼ばれた。
広い室内には、ぼくと同じ年ぐらいの医師と、ぼくより年上の女性の看護師がいた。
一呼吸、間があった。
それから看護師の女性が「検査の結果、すべての染色体に異常はありませんでした。ご安心ください」といってにこりと笑った。
彼女は顔を真っ赤にして、声をあげて泣いた。

そして、2014年11月、11日、ぼくと彼女のもとに子どもがやってきた。
ぼくは出産に立ち会い、帝王切開で妻のお腹にメスが入るのを見た。
小さな、小さな男の子だった。
ぼくは息子を腕に抱かせてもらい、目の開いていないその子をじっと眺めた。

ようこそ。
ようこそ。
この世界へ。
ぼくはきみをずっと守り続けるからね。

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■優柔不断日記■
坂本龍一『async』を聴く               鈴木 茂
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今年3月、坂本龍一さんが8年ぶりに発表したアルバム『async』を繰り返し聴き続けている。しばらくCDで聴いたあと、ハイレゾ(24bit/96kHz)のファイルもototoyで購入した。
http://ototoy.jp/_/default/p/73093
比べるとハイレゾの音は密度が高く、肌触りがなめらかで、輪郭がくっきりとして実在感が増す。その違いは、PC用の卓上スピーカーで再生しても明らかで、より深くアルバムの世界を体感できる。

『async』の内容は、発売前にはいっさい公表されず(タイトルすら!)、その代わりに(?)ゆかりのある人たちが新作の内容を「予想」するという企画が立ち上げられた。僕も声をかけていただいて参加したのだが、「予想」と言われてもなかなか難しい。……
サウンドそのものは、前作『out of noise』と大きく変わることはなく、ピアノ、シンセサイザーによる電子音、街や自然のなかで録られた環境音が軸になる気がする。そこに加わるとしたらヴォーカル/人の声? でも坂本さん自身の歌はちょっと想像できない、あるとしたらはストリングスかな? などと考えたけれど、そんな「予想」じゃ面白くもなんともない。長く続けてらっしゃる反核・反原発の活動やガン治療のことなども頭に浮かべながら提出したのはこんな「予想」だった。

──キーワードは「希望」だとおもいます。世界中でフェアネスが蔑ろにされている時代だから、その裏側には怒りや絶望がべったり貼り付いているかもしれないけれど、音楽はその本質として人間という生き物への信頼なしには生まれえないもの。どんなサウンドが鳴っているとしても、坂本さんの新しい作品からは、静かに、でも確かな強さをもって「希望」が聞こえてくる。「SN/M比50%」をタイトルだと思い込んでいたボンクラは、そう確信しています。

そんなこともあって、CDを再生するときはふだんとちがう緊張感があった。内容に触れた記事は雑誌にもいっさい載らなかったから、予備知識もゼロ。発売日の前日、D&DEPARTMENTでのトークイヴェントで、8曲目「fullmoon」の一部を聴いたのみ。こんな状態で未知の音楽を聴くことは珍しい。

アルバムは鎮魂歌のような美しく静かなメロディで始まる。

1曲目「andata」。バッハの宗教曲を連想させるような落ち着いたピアノの旋律。メロディの断片とも言える短いフレーズが何度か繰り返されるとホワイトノイズのような音がかぶさってきて、オルガンに取って代わる。時おり金属音が混じり、ハム音のようなノイズが左右に移動していく。背後にはたえず「サーーーッ」というざらついた雑音。オルガンの旋律がフェイドアウトしていくとともに曲も終わりを迎える。4分39秒。

2曲目「disintegration」はピアノの弦を直接重いハンマーで叩いているような金属的なバラバラとした音でスタート。もっと細くキンキンした音や、もろに金属と金属がぶつかるような規則的な音、それらがシンクロせずに勝手なリズムを刻み、シンセのサウンドがふわ~っと現れては消える。まさに「バラバラ」。メロディは聞こえてこない。5分46秒。

3曲目「solari」。不思議な揺らぎとビリ付きを伴う、おそらくオルガンに似たシンセと深い低音によるメロディと、シンセ・ストリングスが刻む一定のリズムが繰り返される。そのままあっさりとフェイドアウト。3分52秒。

4曲目「ZURE」。緊張感をはらんだシンセ音が中央、右、左と場所を変えて繰り返される。次いで「カーン」とも「ポーン」とも形容しがたい残響の多い音が次第に大きくなり、一定の間をおいて左右センターで鳴る。ザワザワとした電子ノイズがかすかに、ときに大きく挿入される。後半に入ると、ポツンとピアノの打鍵音。そのうちにシンセ音が退いて、「カーン(ポーン)」と断続的なピアノと電子ノイズだけになり、徐々に間隔が空いて、ふと止まる。5分12秒。

5曲目「walker」。鳥の鳴き声のような電子音と、ボーッという絶えず揺らぐ低音。遠くで鐘の音。枯れ葉を踏みしめるようなガサガサ音。音像も音量も大きい。ピチャッという水の音(?)。荒野で鳴りわたる獣の遠吠えのような、笛の音のような電子音。メロディらしきものは断片すら一切なし。4分20秒。

6曲目「stakra」。ここまでに比べるといくぶん華やかなキラキラしたシンセのフレーズの反復。左右に雑音のような和音のようなビリついた電子音が現れては消える。中央では高い風のようなサウンドが切れ切れに。いきなり景色が変わると唐突に終わる。3分41秒。

7曲目「ubi」。細く高い、またしても金属的な反復音が左右に移動するなか、ピアノが深く沈み込むような穏やかな旋律を奏でる。背後にはキーンというやはり金属的な電子音。4分03秒。

試みに、聞こえてくる音を全曲のちょうど半分、7曲について描写してみた。電子楽器に親しんでいる人なら、雑誌で知ることのできるシンセの機種名などが分かれば、頭のなかで音を鳴らせるかもしれないが、こうした音楽になじみがない人に、実際に鳴っている音楽を想像してもらうのは難しいだろう。

なじみのあるフォーマットに則っていないため、ふだんの聴き方ではとらえきれそうにないこうした音楽を聴くとき、楽理的な分析をする力がなく、電子機器の知識もないぼくは、できるだけ頭をからっぽにして、一音も聞き漏らさないように意識を集中させるほかない。いまその瞬間に鳴っている音をすべて逃さずに耳に入れる。からだで受け止める。それだけを心がけて、そして何度も繰り返し聴く。

最初に思ったのは、音によるインスタレーションのようだ、ということ(アートには疎いので、インスタレーションのなんたるかを理解しているかどうかは心許ない)。いくつかの曲ではっきりとしたメロディが聞こえてはくるが、リズムやビートは茫漠としているし、通常のポップスの構造はもたないといっていい。門外漢にとってのアート作品のように分かりづらくて不親切な作品かもしれない。

だがこれは、どこをどう聴いてもまぎれもなく音楽だ。それもおそろしく強い意志と、研ぎ澄まされた五感をもって入念に音が選ばれ配された、それゆえにすべての音が圧倒的な根拠をもって鳴り響いている音楽作品なのである。どうしてもここでこのように鳴ってほしい、鳴っていなくてはならないと信じ切れるところまで音を突き詰めていった音楽家=坂本龍一その人の体温が伝わり、表情や手つきが音の向こうに浮かんでくる。すべての作品を聴いてきたわけではないし、ライヴも数えるほどしか体験していないけれど、坂本龍一とはどんな音楽家なのか? と問われたら、僕はこの『async』を差し出すだろう。70年代以来の活動をもつ音楽家が、今になって、代表作と呼ぶにふさわしい傑作が生み出したことに、深い畏怖の念を覚える。

多くの曲が防音の不完全な部屋で録音されたためか、通常のスタジオでのレコーディングであれば排除されるであろう機械音など(文字通りの)ノイズが、耳を凝らすとふんだんに聞こえてくることに驚かされる。

CDが届いてまもない土曜の午後、珍しく自宅で一人になったので、アンプの音量を最大限に上げて頭から通して聴いてみた。幾重にも折り重なった音の雲が湧いては消えていく最後の14曲目「garden」(4分16秒)が厳かな余韻を残して終わると、鼓膜を振るわせるのは締め切った窓越しに入ってくるかすかな環境音だけになる。するとその静寂が、まるでアルバムの続きのように聴こえてきた。人工的な音と自然の音がまじった日常の環境音と『async』の音楽とのあいだには、まるで境界が存在しないかのようだ。

『async』は、ひとりの音楽家の熱が伝わるとてもパーソナルでインティメイトな作品であると同時に、そんなふうに音楽の概念と聴く者の感覚を拡張する作品でもあるのだ。

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■music・book・education■ #001
「泣くのは恥ずかしい。」              木村 元
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昔は「泣ける本」というような惹句を見て、「本を読んで泣くなんて……」と思っていたものだが、最近は小説を読んでもノンフィクションを読んでも、けっこう涙腺が刺激されて困る。歳をとって、感動の閾値が下がったのだろうか。

本を読んで涙腺が刺激されたときの気持ちというのは、なかなかに複雑だ。「あ、(感動が)来るぞ来るぞ、涙が出そうだぞ」と感じると、一方で、それを止めようとする意識がはたらくのである。誰もが経験することだろうと思いつつ、「ややこしいやつだな」と思われそうで、いままで人に話したことはなかったのだが、つい最近のこと、この自己抑制のメカニズムをうまく説明してくれている文章に、ようやく出会うことができた。

「ある音楽作品を前に、気がついたら自分が涙を流していたというとき、私はいつでも二つの矛盾し重複する感情を経験するのだ。自分の反応の純正さと激しさへの(そうよぶのはためらいを感じるのだが)満足感と、その満足感をまさに意識していることがなぜか恥ずかしく思われる気持ちとである」(イアン・ボストリッジ著/岡本時子・岡本順治訳『シューベルトの「冬の旅」』アルテスパブリッシング、2017、87-88頁)

自分でつくった本の話で恐縮だが、編集をしていて、「ああ、これこれ、この感覚」と感激したので、思わずゲラに線を引いてしまい、あとで組版担当の方から「ここはどう直せばいいですか?」と質問されてしまった。

ここで言われていることは、読書にも当てはまることであり、つまり感動というのは、ある種の甘美な自己肯定感と、安易にそれに浸ることを許すまじとする自己規制の感覚とのせめぎ合いだということである。

そんなに自己規制していたら、せっかくの感動が逃げてしまって、読書や音楽をじゅうぶんに楽しめないのではないかとも思う。その甘美な自己肯定感に浸れるだけ浸り、涙を流せるだけ流せば、人生もっとドラマティックで楽しいものになりそうな気がしないでもない。

この自己抑制の感覚は、ボストリッジも書いているように、一種の恥ずかしさの感覚である。ただ、電車の中などで本を読んでいるときだけでなく、自分ひとりのときにもこの感覚ははたらくので、「泣くのを人に見られるのが恥ずかしい」ということではない。あえていえば、読んで感動している自分と、それを外から観察している自分とがいて、後者は前者にたいして「ほら、またそんなところで感動して」とツッコミを入れ、前者は「すみません。つい、涙腺が……精進します!」と恥じ入っている感じか。

本を読み始めて、まだ意識が没入しきっていないときには、このツッコミを入れる自分は現れない。「ふーん、舞台は◯◯市なのか」とか「主人公は神経質なところがあるんだな」などと、いわばテクストを読解するための基礎的な情報を収集し整理している段階を経て、そういった情報を意識しなくても、主人公の意識が手に取るようにわかったり、起こった事件の重要度が身をつまされるように実感できたりする段階に入る──つまり、作品に身体ごと没入し始めると、やっかいなことに、それまで単一だった自分の意識が複数に分化し、このツッコミを入れる自分が現れて活動を始めるのである。変な話かもしれないが、わたしにとっては、感動が深ければ深いほど、このツッコミはさらに旺盛になり、加えて冷静さを増し、根掘り葉掘り、わたしの感動の揚げ足取りを始める。

自分の感動にいちいちツッコミを入れる意識を感ずることなく、感動の命ずるままに滂沱の涙を流せたら、さぞ気持ちがいいだろう。しかし一方では、感動にふるえつつも、ツッコミ星人の〝いけず〟に耳をかたむけながら、涙をこらえる自分のことを、それほど不幸だとは感じていない。それどころか、この複数の自分どうしの「対話」こそが、読書や音楽の感動そのものではないかとさえ思うのである。「やっかいなことに」と書いたけれども、やっかいどころか、ツッコミ星人が顔を見せ始めると、「お、来たきた」とほくそ笑んでしまう。なぜなら、彼が現れたということは、自分がその作品に少しずつ没入しつつあるということであり、彼がツッコミを入れざるをえないほど、自分が感じ始めている感動は深いかもしれないことを表しているからである。

     * * *

自己の複数化の感覚こそが、読書や音楽の感動の源泉だとするならば、その感覚はいったいどこから来るのか。

考えてみれば、本や音楽作品は、わたしのためだけに存在しているわけではない。たいていの場合は、出版社が大量に複製したうちの1冊であり、不特定多数に向けて演奏される1曲である。これからおいおい問題にしていきたいテーマとからめて言えば、「公(public)の財産とする」という意味で「publish」されたものである。

そのようなものとしての本や音楽を読んだり聴いたりするとき、わたしたちは、「公の一員」である自己と「ただひとりしか存在しない個人」としての自己とに分裂する。個人である自己がいくら感動しようとも、あるいはいくらその作品を勝手な基準で貶そうとも、何の問題も生じないだろう。じっさい、本を読んだり音楽を聴いている最中に、そういう「個人の暴走」はよく起こる。ある一行を読み飛ばしたがために、「この作家は伏線を敷くのを怠った」と怒りかけたり、先行作品を聴いたことがないために、ある曲にもちいられたアイディアを「画期的だ!」と称賛しそうになったり。

そこにツッコミを入れてくるのが、「公の一員」としての自己である。「3ページほど前に戻って読み返してみなさいよ」「待った待った、感激してシェアする前にググってみたら?」などと、暴走しかけた個人としての自己を諌め、ブレーキをかける。

しかしそれでも懲りない〈個=自己〉は、感動を始めると、「ここで涙腺決壊させてもいいですか」と〈公=自己〉にうかがいを立てる。「うーん、ここはよくあるプロットだよね。もう少し待ってみたら?」「いまピアニストが苦しそうな表情したろ、まさかあれに刺激されたの?」などと、どんどん堤防を高くしてくる。

この〈公=自己〉がつねに要求してくるのは、じつは、その作品が外の世界と結んでいる関係性を、〈個=自己〉が正しく認識しているか、ということである。それは、その作品の文学史や音楽史の中での位置付け、先行する作品からの影響、著者や演奏家の個性や能力といったものへの依存度といったことである。念のために付け加えれば、ここで要求されているのは、たんにそれら情報を知識として身につけているかではない。知識があればもちろん判断の助けにはなるが、知識のあるなしにかかわらず、作品からそうした外部との関係を感得できるかどうか、という能力を、〈公=自己〉はまさに問うてくるのである。

そうした関係性を正しく認識し、自分がまさに作品の本質から送り出されたメッセージを受け取っているがために、その感動が惹き起こされていると〈個=自己〉は判断し、ある時点で涙腺を決壊させるにいたる。このときの感覚がボストリッジのいう「自分の反応の純正さと激しさへの……満足感と、その満足感をまさに意識していることがなぜか恥ずかしく思われる気持ち」なのだろう。

     * * *

ここまでわたしは、複数化した自己どうしの対話を、教師と生徒の対話のように描いてきたが、それは故のないことではない。まこと、読書や音楽の体験とは、自らが教師役と生徒役を演じ分けながらおこなうセルフ・エデュケーションだからである。

読書や音楽鑑賞の対象となる作品は「公のもの」、すなわちpublishされたものだと言ったが、その作品に対峙するとき、わたしたちの内部から「公としての自己」が立ち上がる。これを「自己をpublishすること」と言い換えてもいいだろう。いままで自分の中にひっそりと隠れていた「自己」──笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣いていた無邪気な自己を、外の世界、公の世界にしっかりと確立し存在させること。そのためにおこなわれるのが、作品と対峙しつつ、自己の内面でおこなわれるこの対話なのである。

本や音楽の鑑賞とは、孤独で密やかないとなみではけっしてない。人に見えないところでひそかにおこなわれているはずのそれが、じつはダイナミックな対話型教育の舞台となり、人間を公の存在へと高める契機となっているということを、感動の涙と対になって現れる「恥ずかしさ」は教えてくれているのである。

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■執筆者プロフィール■
島田潤一郎
1976年、高知生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながら、ヨーロッパとアフリカを旅する。小説家を目指していたが挫折。2009年9月に33歳で夏葉社を設立。著書に『あしたから出版社』(晶文社)、夏葉社の最新刊は三品輝起『すべての雑貨』、『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』。
http://natsuhasha.com/

鈴木 茂
1960年、東京生まれ。1984年、東京大学文学部社会学科卒業。同年、株式会社音楽之友社に入社。22年近く月刊誌『レコード芸術』、ムック、書籍などの編集に携わる。2006年1月、同社を退職。フリーランスの編集者を経て、2007年4月株式会社アルテスパブリッシングを設立。二児の父。

木村 元
1964年、京都生まれ。1988年、上智大学文学部哲学科卒業。同年、株式会社音楽之友社に入社、一貫して音楽書籍編集に従事、200点を超える書籍を担当。2007年3月、同社を退職。2007年4月、株式会社アルテスパブリッシングを設立。国立音楽大学評議員。
https://www.facebook.com/gen.kimura

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ARTESフレンズ&サポーター通信[vol.001](毎月第2火曜日発行)
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発行日:2017年5月9日
発 行:株式会社アルテスパブリッシング
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