上田知華さんの逝去を悼んで

シンガーソングライター、作曲家の上田知華さんが2021年9月に膵臓癌で逝去されました。64歳の若さでした。7カ月を経て届いた訃報に、言葉を失いました。

「PIECE OF MY WISH」作曲 上田知華さん死去|朝日新聞

1978年に上田知華+KARYOBINとしてデビューし、シンガーソングライターとして活動したのち、作曲家に転身。1980年代末頃から、今井美樹さんの《瞳がほほえむから》(1989)や《Piece Of My Wish》(1991)といった大ヒット曲を次々に送りだすスーパー・クリエイターという印象もあった上田さんですが、2014年5月にリリースしたCD『歌曲集 枕草子』(一倉宏作詞、上田知華作曲、兼松衆編曲)は、自身のルーツであるクラシック音楽のフォーマットに、上田さんらしい伸びやかなメロディと清潔感あふれるハーモニーを載せた、まさに満を持しての新境地といえるものでした。

「《枕草子》の楽譜を出したい」と上田さんから相談を受けたのは、CDリリース記念演奏会の1カ月前。熱心にバンド活動をしていたころの自分にとって最高のアイドルだった上田さんからの依頼とあって、全力でとりくみ、ぎりぎり演奏会当日に納品された『歌曲集 枕草子 楽譜集』を手にしたときの達成感は忘れられません。この作品はその後確実に歌い継がれ、少部数ながら9刷を数えるロングセラーになりました。

その後、この作品を聴いた合唱指揮者の栗山文昭さんから「ぜひ、女声合唱版を」とのリクエストがあり、栗山さん率いる女声合唱団「青い鳥」の委嘱作品として、2016年《女声合唱 枕草子》が完成し、出版されました。

《女声合唱 枕草子》より〈私の好きな月〉(プロモーション・ビデオ)
一倉宏作詞、上田知華作曲
栗山文昭指揮、女声合唱団「青い鳥」

この間、上田さんからは折にふれて連絡をもらい、合唱についてわたしの知っている範囲でお話ししたり、「青い鳥」のリハーサルを見学してアレンジについて私見を聞いていただいたりもしましたが、たんに、ポピュラー音楽で身につけたノウハウをクラシック音楽に応用するということでなく、「合唱とはどうあるべき?」「現代の女性が歌う意味とは何?」と、テーマを突きつめ、みずからあざやかにクリアしていく姿を目のあたりにして、「ほんとうのクリエイターはそこまで考えて仕事をするものなのか」と、いつも背筋の伸びる思いがしました。

そんな上田さんから、「いろいろな合唱のコンサートを聴いてきたけど、いまの若い女性たちが、ほんとうに共感をもって歌える歌が少ないように思う。自分のこれからすべき仕事は、そんな歌をつくることではないか」という思いを打ち明けられたのは2018年のクリスマスの夜でした。「そんな歌をいっしょにつくってくれる詩人を知りませんか」と問われて、「詩人ではないのですが」とことわったうえで、敬愛する作家・梨木香歩さんの名をあげ、なかでも愛読してきた『f植物園の巣穴』(朝日文庫)を読んでみてほしいとお話ししたのです。

翌年4月にいただいたメールは、「『f植物園の巣穴』に始まった梨木香歩全作品読破への長い道のりも、あと一冊を残すところとなりました」という得意げな言葉にはじまるもので、あいかわらずの実行力、集中力に驚かされましたが、「私は梨木香歩の大のファンとなり下がり(笑)作品をご一緒するなどとはおこがましいという気持ちになっております」ともあり、実現まではもう少し時間がかかるのかなとも思っていました。

上田さんは毎年暮れに「ワインと音楽」と題して、カリフォルニア・ワインの試飲会とライヴを組み合わせたイヴェントを開催していましたが、その年、2019年12月14日におこなわれた「ワインと音楽」では、ひさしぶりの新曲が披露されました。タイトルは《風の境界》。「梨木香歩さんの『境界を行き来する』というエッセイを読んで、わたしたちのいるこの世界と、わたしたちには見えない向こうの世界との〈境界〉について、思いをはせながらつくってみました」というMCのあと歌われたのは、生きとし生けるものを、そして世を去った者たちすべてを言祝ぐようにスケールの大きな音楽でした(そのあと録音なども聴いていないので、自分の中に残っている印象にすぎませんが)。ああ、上田さんはあきらめてはいない。わたしたちには想像もつかないほど、はるか向こうに思いをめぐらしているんだ、と感じ、うれしく誇らしい思いをいだきました。真のクリエイターとともに時代を生きる幸せとはこういうことなのだと、あらためて感じてもいました。

梨木香歩『ぐるりのこと』(新潮文庫)

思い出を語ればきりがありません。いまはせめて上田さんがわたしたちに遺してくれた数多くの名曲をひとつひとつ聴きながら、上田さんがみずから「越えてみたい、越えられるんだ」と示してくれた彼岸と此岸をへだてる〈境界〉に思いを寄せて、喪の時を過ごしたいと思います。

知華さん、ありがとう。安らかにお休みください。

[木村 元]