op.9 3つのノクターン

「ノクターン」のはじまり

 ノクターンという表題が最初に使われたのは、イギリスのジョン・フィールドからである。フィールドは1782年にアイルランドに生まれ、サンクトペテルブルグを拠点に各国で演奏家として活躍しているが、音楽家としての出発点はクレメンティとの出会いによる。作曲家演奏家のみならず楽譜出版業ピアノ製造業者として19世紀初頭にヨーロッパ各地で幅広く活動したクレメンティを師としてパリ、ウィーン、モスクワと演奏旅行をしている。ショパンの活躍と同時代の1837年に死んだが、ソナタ、幻想曲、ピアノ協奏曲などを作り、今日もなお音楽史上に、ノクターンの創始者としてその名を残している。フィールドの時代、師クレメンティも貢献して、鍵盤楽器はハープシコードからピアノの時代となった。音域、デュナーミクなど、楽器の構造上の進歩により、音楽表現の幅が格段の広がりを見せ、音楽家はそれまで望めなかった大音量、デュナーミクの大胆な変化など技巧を駆使して聴衆を魅了することに情熱を傾けた。
 そのような時代になって、フィールドは夢心地、あるいは夢想という言葉が当てはまるような音楽で聴衆を魅了していた。淡く柔らかな、優しく身を寄せてくるような旋律には、重厚で古典的な形式観よりも、曖昧な境界線、漂うような獏とした雰囲気、そういったものが聴き手の心に入り込んでいく。指は鍵盤を強く押さえ込むことも叩くこともなく、あたかも撫でるように動き、美しく長いフレーズを歌っていく。主題はあるものの、それを発展させるというソナタやロンド、変奏曲のような形式観ではなく、情感の変化、うつろいを感じさせる音楽構成となっている。1812年にノクターンと名づけた曲を発表し、その後、20年ほどの間に17番までを発表、同時代の作曲家たちに多大な影響を与えている。
 フィールドは時代の寵児たちが集まるパリでも非常な人気を博していた。ショパンは1833年の年明けに、故郷の友人に宛てた手紙の中で「僕の作品を使って音楽家たちは弟子のレッスンをしている。僕の名はフィールドに次ぐものとなっている」と誇らしげに書いている。歌うことを音楽に求めるショパンは、フィールドのノクターンに聞こえてくる、穏やかに流れる伴奏と美しく歌う旋律に、しばし耳を奪われることがあったのだろう。

ショパンのノクターン

 そのようなショパンはフィールドの後継者となり、創始者を越えてノクターンの芸術性を高め、ノクターンをピアノの一大曲種として確立していった。
 初めてフィールドの演奏を聞いたのはワルシャワ時代の1818年。イーロヴィッツの協奏曲をラジヴィウ伯爵邸で演奏して、音楽会デビューを飾った年である。
 その9年後に、死後フォンタナの手によってop.72として出版されるノクターン ホ短調を作っている。17歳になった青年ショパンは、ピアノとオーケストラによる「モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』のアリア『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ』による変奏曲」(op.2)を作った年で、フィールドの作風と似ていて、後のノクターンと比較すると、エネルギッシュで簡素な曲想となっている。伴奏である左手の3連音符のアルペッジョ音型を同じにして、右手をしっとりと歌わせ、調性とともに移ろい行く雰囲気はフィールドからの影響が窺える。
 そしてノクターンに分類される「レント・コン・グラン・エスプレッショーネ」嬰ハ短調の作曲は1830年で、失意のウィーンから、故郷にいる姉のルドヴィカに贈った悲しげで美しい曲想だ。悲恋に似た気分の余韻を残して終わる、フィールド的なノクターンがこの曲には感じられる。
 生涯に作ったノクターンは21曲で、そのうちの18曲はパリ時代のものだが、それらを3つあるいは2つずつまとめ作品番号を付け出版している。

パリに登場

 1831年、ショパンはパリに到着した。そこで待っていたのは、ワルシャワで新政府を一時は樹立しロシアへの勝利を謳ったものの、結局亡命せざるを得なかったポーランドの文化人たちだった。
 彼等が月曜ごとに集うのが、革命の中心人物だったチャルトリスキ公が住居とするランベール館で、そこでショパンはポーランドの国民的英雄詩人ミツキエヴィチらのために演奏した。
 数ヶ月前のドイツでの孤独な不安感などすぐに吹き飛んでしまった。パリの街の喧騒はすさまじかった。しかし馬車を降りてランベール館に足を踏み入れると、ワルシャワにいるのではと錯覚するほどに、かつて出会っていた文化人たちの顔が揃っていた。ただどこを見渡しても愛する家族や友人たちの姿はない。そのことにショパンはしばし呆然とすることがあるほど、故郷の人たちの顔ぶれがそろっていた。
 街ではオペラ座、イタリア座、オペラ・コミック座を馬車で一巡りするなど活発に動き回った。チケットを手に入れればヨーロッパでもっとも活躍する歌い手たちによる最高のオペラを堪能できる、と故郷への手紙に誇らしげに書いている。
 ショパンの日常を彩るようになる音楽会や夜会で、パリでもっとも注目される同世代の音楽家たちと出会っては友情を結んだ。リスト、メンデルスゾーン、ヒラー、ベルリオーズ、フランコム、誰もがショパンと知り合えたことを心から喜んでいる。

活気あふれる街

 パリには何でもある。目に入るもの、耳に聞こえるもの、すべてがワルシャワでは決して想像できなかったものばかりだ。怪しげな看板から、ぬかるみで足を取られそうになる街路、郵便馬車、乗り合い馬車から家紋付きの貴族の小型馬車。それらが石畳の上でぎりぎりにすれ違っている。御者たちは乱暴に馬を駆り、先を急がせる。その騒ぎを助長するのは街の売り子たちだ。屋台でも、あるいは手にカゴを持ちながらでも、野菜や肉、何でも売っている。お金持ちが馬車を寄せる高級ブティックから、軒下にところ狭しとぼろに見まごうものまで下げて、庶民以下の貧しい人たちを相手にする路地にひしめく商店まで、活気ある街は貧富の大きな差を残酷なほど露に見せつけている。でも明日を目指す活気が街のあちこちにあふれていた。

パリ滞在を延長

 そんな中でショパンはまずは幸運なスタートを切った。
 それはポーランドから亡命してきた大貴族たちがいたことと、ウィーンでマルファッティからもらってきた紹介状が功を奏するからだ。
 政治的騒乱は各国にあるとしても、パリに一年のうち半年から数ヶ月住むのがヨーロッパの貴族たちの優雅な生活パターンで、ヨーロッパ随一最高の国際都市だった。そのような環境の中、マルファッティの紹介状でパエールに会って、イギリス行きのパスポート行使を延長することに成功した。「研鑽するために」パリ滞在延長を許可するようにと警察当局に働きかけとしてくれたからだ。そしてフィールド以上のノクターン作曲家と目される3曲まとめたノクターン(op.9)を出版することとなる。

op.9 3つのノクターン   [1832年完成(22歳) 1832年出版]

第1番(op.9-1) 変ロ短調 4分の6拍子 ラルゲット
 曲は4拍目から始まり、表情豊かにと指示されている。全体は3部形式で、半音階、トリル、前打音が旋律を飾る。中間部分はソット・ヴォーチェ。オクターヴで伸びやかな雰囲気になる。やがて高音にピアニッシシモで3度音程の旋律が出て、最初の部分が再現される。半音階部分はさらに細分化されてきらめき、やがて穏やかに曲を閉じる。
第2番(op.9-2) 変ホ長調 8分の12拍子 アンダンテ
 この作品9は、すべて左手が8分音符の単音でほぼ同じ音型をくり返す。しかしこの2番だけは左手が8分音符の連なりは同じながら、単音1つ‐和音の8分音符2つという形になっている。
 右手の最初の4小節主題は簡素に始まり、くり返されて装飾を加えられている。13小節からの3度目の主題の装飾はさらに手がこんでいるが、作品全体でさまざまに装飾され、くり返されながら、いずれも途切れることのない旋律運びの中で、主題がいっそう美しく浮かび上がってくるかのように聞こえる。ショパンは声楽的な装飾がもっと自然な美しさを生み出すと考えていたため、イタリア・オペラの歌い手たちが即興的に旋律を装飾して歌うのを記憶して書き取っていたといわれている。下行する装飾的旋律、あるいは上行する場合には声楽的なポルタメントを好んでいて、それが楽譜に印刷されていない場合も、手書きで書き込んだと弟子が証言しているが、そのようなショパンの作曲法をうかがわせるノクターンのひとつといえよう。曲の後半にはルバート、ストレット、そしてデュナーミクの変化で曲想を細やかに揺らすことに心をくだいていることが伺える。コーダはショパンが得意とする、きらめく音が降り注ぎ、最後はゆっくりと静かに終わる。
第3番(op.9-3) ロ長調 8分の6拍子 アレグレット
 3部形式のA部分は、6拍目の弱拍から始まり、印象的な付点のリズムによる主題が巧妙に変化されていく。この部分はスケルツァンドらしく、左手は2拍目が4分音符で右手の2拍目にアクセントが付けられ、曲調を変則的にしている。中間部分Bはロ短調で2分の2拍子になり、ノクターンには珍しくアジタートになる。デュナーミクを変化させ、気持ちを高ぶらせる。左手も8分音符の3連符の勢いが気分に拍車をかける。最初の部分が戻って、艶かしいほどの装飾をまとう。きらきらと音をちりばめるかのようなコーダで、最後はアダージョと速度を落とし、さらにゆっくりとなって消え入るように終わる。

献呈相手のマリ・プレイエル

 この3つのノクターンはパリ到着に相前後するころに書かれ、サロンで大人気の音楽家となる1832年に出版されている。ピアノ愛好家の貴族たちは、この情緒ある作品集をうっとりと聴き、その楽譜出版を心待ちにしたに違いない。
 ショパンの弟子になる貴族子女たちが弾くピアノは、かなりの腕前だったことはよく知られている。しかしプロの演奏家の道を選ぶ女性は非常に稀有な時代だった。そのような時代に演奏家として非常に注目されたひとりに、ショパンからこの「3つのノクターン」を献呈されたマリ・プレイエルがいる。
 1811年にパリに生まれたマリは、モシェレスやカルクブレンナーの教えを受け、音楽教師の道に入った。19歳でベルリオーズと婚約するが、作曲家の登竜門ローマ賞を受けたベルリオーズがイタリアに行ってしまうとすぐに、ピアノ製造業者のカミーユ・プレイエルと結婚した。ベルリオーズもカミーユもショパンの親しい友人となるが、そのいずれもがマリの演奏家としての才能に驚嘆したという。5年で結婚を解消したのち、本格的に演奏活動に入り、同時代の音楽家たちから演奏への絶賛を受け、ショパンのほか、リストらからも曲を贈られている。
 このようなマリにショパンがこのノクターンを献呈したのは、その演奏に敬意を表したからなのはもちろんで、さらに夫カミーユとともに示される友情に感謝したからであろう。