op.10 練習曲集
計画的な作曲
作品10の練習曲集の中には愛称が付けられているものがある。その中でもっとも有名なものというと「革命のエチュード」だろうか。これはパリ到着以前のシュトゥットガルトで、ロシアによるワルシャワ陥落を知り、その行き場のない苦しみと怒りを鍵盤にぶつけて作ったと伝えられている。しかし作曲経緯に祖国への大きな感情のうねりはあるものの、決して唐突な創造ではないのは確かである。というのは、ワルシャワ時代の1829年に4曲、翌年に4曲といったように、この練習曲集は計画的に作られているからだ。
前奏曲集について解説する際にも詳述することになるが、これまでもノクターンやマズルカを小規模の曲集のように数曲まとめて出版するにあたり、ショパンは綿密に作品構成を考えていたと思われる。前奏曲集では全体設計図のような小節数や調性計画などのメモが残っている。
「衝動的」天才芸術家ではないショパンは、その知性に裏付けられた意図、計画性なしには作曲行動に入らなかったと考えられる。一緒に暮らした作家ジョルジュ・サンドは、ショパンが散歩中に思い浮かんだ旋律をピアノに向かって組み立て直すために、たいへんな努力をしていた、といった言葉を残している。
ショパンが生きている間に出版した作品番号は65を数える。そのなかで出版社から依頼されて作曲したものは、「華麗なる変奏曲」(op.12)だけで、その他は、献呈相手はあるとしてもすべて自分の意向、計画で作られたものばかりだ。
練習曲集(op.10)の出版は1833年でop.25の練習曲も平行して手がけられていたという。
練習曲の時代
ではなぜショパンは12曲ずつ、そしてそれらを練習曲と名づけたのだろうか。
ショパンの時代、ピアノは構造的な進歩をとげ、音楽表現の幅は飛躍的に広がった。それに伴って、演奏技術を向上するための練習曲が出版され、現在もなお一般的なものは、この時代に作られたものが少なくない。「ハノン」「チェルニー」というと、作曲家の名というよりも、練習曲集の名で通っている。
ハノン(1820‐1900)もチェルニー(1791‐1857)も同時代人だが、ショパンがフランス人であるハノン(フランス読みはアノン)に出会ったかどうかは明らかではない。初めてウィーンに滞在した折、ショパンはヴュルフェルの引き合わせでチェルニーには会いに行っている。
ピアノの時代になって、多くの音楽家が練習曲集を手がけた。ハノンの練習曲集は、同じ音型をくり返しながら下から上に向かう指の純粋な訓練用教則本として、そして技術の難易度で選べるチェルニーの練習曲集は、現在もなお、多くのピアノ教育現場で使われている。
チェルニーはベートーヴェンに学び、自身当時の大ピアニストのひとりであり、リストを教えた高名なピアノ教師で、数多くの練習曲集を作ったことで、その名を音楽史に残している。
チェルニーの練習曲は、それぞれが独立した曲となっていて、なかには音楽的に表現豊かなものもあるが、指を鍛えることをコンセプトに作られている。そしてクラーマー(1771‐1858)やモシェレス(1752‐1870)にも練習曲集があるが、そのような多くの作曲家が影響を受けた曲集にクレメンティ(1752‐1832)の「グラドゥス・アド・パルナッスム」(1817)がある。これは100曲以上の小品からなり、演奏技法とともに作曲形式なども学ぶことになる網羅的な「練習曲集」ともいえ、ショパンは弟子たちを教えるために、この曲集を使っていた。しかしショパンにとっての練習曲集の規範というと、最初の先生ジヴヌイから与えられ、次々に弾いたバッハ作品かもしれない。そこにはまさに音楽の宇宙が広がり、インヴェンション、シンフォニア、平均率など、調性と形式、音型、音響などと、ショパンにとって音楽芸術の無限の宝箱だった。シューマンやリストにも練習曲集があって、19世紀はピアノの普及とともに練習曲の時代とも呼べるほどに、作曲家たちの創作意欲はこの分野に発揮されたのである。
ショパンの練習曲集の独自性
このような練習曲の時代にあって、ショパンの練習曲集が金字塔のように光っているのはなぜだろうか。
ショパンはもちろん、指の訓練のための曲集をと考えているが、すばらしいのは、どの作曲家もなしえなかったほどに、音楽表現、すなわち演奏会用の練習曲という意味合いで、他に追随をゆるさない内容となっているところだ。鍵盤上を指が迅速に動くようにというのが、練習曲の意味だと一般に理解される。ショパンの練習曲はその基本理念をもちろん抑えつつ、芸術表現のためのいわば訓練用作品で、レガート奏法、軽やかな演奏、滑らかで軽やかなフレージング、歌うということを学ぶための曲集、それらの要素から、まさに芸術的作品そのものとして、曲集から取り出されて演奏会用のレパートリーとなっているものも小なくない。
活気あふれる街
パリには何でもある。目に入るもの、耳に聞こえるもの、すべてがワルシャワでは決して想像できなかったものばかりだ。怪しげな看板から、ぬかるみで足を取られそうになる街路、郵便馬車、乗り合い馬車から家紋付きの貴族の小型馬車。それらが石畳の上でぎりぎりにすれ違っている。御者たちは乱暴に馬を駆り、先を急がせる。その騒ぎを助長するのは街の売り子たちだ。屋台でも、あるいは手にカゴを持ちながらでも、野菜や肉、何でも売っている。お金持ちが馬車を寄せる高級ブティックから、軒下にところ狭しとぼろに見まごうものまで下げて、庶民以下の貧しい人たちを相手にする路地にひしめく商店まで、活気ある街は貧富の大きな差を残酷なほど露に見せつけている。でも明日を目指す活気が街のあちこちにあふれていた。
op.10 練習曲集 [1832年完成(22歳) 1833年出版]
第1番(op.10-1) ハ長調 4分の4拍子 アレグロ献呈者のリスト
ショパンはop.10の練習曲集をリストに献呈している。リストは1歳年上で、ショパンがパリに到着した頃には、すでにたいへんに人気のあるピアノ奏者だった。貴族のサロンで、そしてホールでの演奏会で、その技巧を尽くした演奏ぶりで客席をいつも一杯にしていた。19世紀の演奏会の様子を記したカリカチュアなどに見られる興味深い光景のひとつに、舞台での演奏と関係なく客席はお喋りをする、というものがある。それは音楽会が、いわば社交場だからであって、現代のように身じろぎもせずに演奏家の登場を待つことなどなかったからだ。しかし例外のひとつがリストの演奏会で、客席はリスト・ファンで埋め尽くされ、超絶技巧体験をしたい貴族や資産家たちが、舞台に全神経を尖らしていた。
その華やかな音楽家像からは想像できないほど、リストは心に傷を負っていた。ハンガリー生まれのリストは父に連れられ演奏旅行をし、あたかもモーツァルトのように幼い頃から一家を支える担い手にさせられた。市民社会に移行しようという19世紀、しかし依然として貴族の称号が社会の覇権である時代、リストはパリ随一の音楽家と目されるようになっても、身分がない母国語を忘れたデラシネ(根無し草)であると心の奥底に劣等感をいだいていた。宗教に救いを求め、読書に耽り、優雅なマリ・ダグー伯爵夫人を恋人にして子供を3人ももうけながらも、気持ちの落ち着けどころを捜し続けた。
そんなリストはショパンに会って、貴族のような雰囲気と、美しい手が生み出す半音階、転調、不協和音など、耳にしたことのない革新的な音響でありながら、流麗な音楽に目も耳も奪われてしまった。後年「ショパン論」に書いているように「勤勉で忍耐強く、自己の作品を飽くことなく丹精」しているショパンの姿にリストは感嘆し、賛辞を惜しみなく贈ったに違いない。パリで音楽家として自分の先を歩み、最高の理解者であることを自負しているかのようなリストに敬意を表して、この練習曲集を献呈することにしたのだろう。
嫉妬したリスト
しかし2人の友情はそれほど長続きしなかった。その予兆はすでに、献呈した練習曲集をリストが過激に演奏するのを聴くと苛立つと、ショパンが友人のヒラーに語った1834年頃に見出せる。当時のパリにおいて、リストは作曲家というよりも演奏家として、一方、ショパンは作曲家としても演奏家としても、いずれもこれ以上ないほどの成果をあげ評価をすぐに手にした。それがリストにはだんだん面白くなくなっていった。大勢の聴衆を前に大音響で神業的な技巧で演奏できる自分のような音楽家こそ最高の栄誉に輝くはずなのに。それにも関わらず、批評家も音楽仲間もこぞってショパンの音楽を最上級の言葉で誉めそやす。自分が音楽界で最高に位置づけられるはずとの思いから、1840年頃からリストは音楽評論で、ショパンの演奏会を批判しだす。ショパンは選ばれた人たちだけのためにしか演奏しない、演奏作品も限られているといった内容で、ショパン像の矮小化を試みる。
しかしペンで攻撃しても、その才能を認めていたのは確かで、自らの演奏会の重要なレパートリーには、ショパンから献呈された練習曲集やスケルツォなどを含めていたのは勿論だった。
やがてショパンの死後5年たって出された「ショパン論」では再び、その才能への賛辞を惜しむことはない。