◎連載
第11回 日本戦後現代音楽史──前衛とアカデミズムの逸話(2)

音楽・知のメモリア (小鍛冶邦隆)

 前回の連載では、ヨーロッパの歴史的音楽とはあきらかに異なる、日本の文化制度における統治としての音楽文化の特異性(あるいは不在)についてふれた。とうぜんながら移入文化である「西洋音楽」は、戦時においても、政治的プロパガンダ以上の意味性は獲得されることなく、またそれゆえ実質的な統制の対象ともなるべくもなかったように思える。
 日本の戦後の現代音楽は、その出自を自由に選択できると同時に、同時代のヨーロッパ市民社会の歴史性を映す鏡像としての「前衛」を、あきらかに異なるコンテクストで引用することにより、その「現代性」を容易に獲得したといえよう。あとは発育不全のアカデミズムという、実質性のない領域のイメージを対比的に操作すればことたりた。
 しかしながら歴史的体験としての「戦時」が現実であるかぎり、やがて作曲家の想像力の極性に作用する瞬間もとうぜん訪れるであろう。

◎レクイエム・レクイエム

 武満徹と三善晃の《レクイエム》がある。それぞれに異なる時代性(1950年代後半と70年代初頭)に作曲されたこれらの作品については、作曲者自身によって作品の成立と戦時との関係が明らかにされている。
 武満徹の出世作、《弦楽のためのレクイエム》(1957)の場合、想起されるのは、この作品に直接言及していないとしても、「暗い河の流れ」という作曲者自身によるエッセイである。このよく知られたエッセイは、「私にとって音楽がはじめての〈他者〉として現れたのは終戦に近い、一九四五年の夏であった」とはじまり、ジョセフィン・ベーカーのシャンソン《聞かせてよ、愛の言葉を》との邂逅という有名なくだりへとつづく。そして終戦=敗戦としての戦後という状況(「私たちは、ひとりひとりの暗い河の流れに身をまかせるより他になかったのだ」)のなかで、作曲家としての出発が語られる。
 武満がさらに「1960年、安保の批准成立によって、私の青春は終わった」と書くことにてらせば、《弦楽のためのレクイエム》が映していたものもまた、特定の対象への弔いというよりも戦時と戦後の精神風景としての時代へのまなざしであったのはいうまでもないであろう。
 いっぽう、1971年に作曲された、三善晃の混声合唱とオーケストラのための《レクイエム》について、三善自身が書いた文章には、「あんなにも近く、親しく、私もその隣にいたという意味で平易ですらあった死者たちの死に、地上のどのような希いも祈りも慟哭も届きようがないことをさとるためにしか、私は「レクイエム」の音を書き綴らなかったのだ」(《詩編》(1979)のための作曲者による解説)という一節がある。
 戦争のさなかの身近な死の記憶たちが、四半世紀の刻をへだてて、作曲家の想像力のさなかに、あたかも「私の内部の祭りである」(上記解説)かのように激越で華麗な音響を解きはなつのである。
 武満のエッセイ「暗い河の流れ」が朝日新聞紙上に掲載された1971年、たまたま2人の作曲家の「戦時」とそののちが出会う。「永久(とわ)の死者の平安(レクイエム・エテルナム)」などではなく、レクイエムという喪の葬祭──「レクイエム・レクイエム」として。

◎西方より

 ふたたび50年代に戻ろう。
 三善晃はフランス政府給費留学生として、1955年から57年にかけてパリに学ぶ。パリ国立高等音楽院和声クラスのアンリ・シャランのもとでの学習は、幸福なものともいえなかったのだろう。
 「本能的な音楽的創造性と構築性」(矢代秋雄)にめぐまれた作曲家にして、アカデミズムという名のヨーロッパ文化の歴史性からうけた拒絶は、やがて彼の創作の拠点としての文化と歴史性の問題に漂着するであろう。1974年以降、桐朋学園大学学長として教育の分野に活動をひろげ、また多くのアマチュア合唱団との出会いから生まれた豊穣な合唱音楽や、伝習的なピアノ教育に一石を投じようとするMiyoshiピアノ・メソードの開発などの創造的な軌跡のうちにこの作曲家がもとめたものは、プロフェッショナリズムとしての市民的教養主義にもとづく、連帯によるコミュニティへの道程であったのかもしれない。
 1995年に桐朋学園大学学長を辞任したのち三善は、《レクイエム》三部作(1972~84)と対応する、《夏の散乱》以降のオーケストラ四部作(1995~98)をつうじて、一貫して戦争体験にこだわる作曲家という世間的評価のもと、華麗な創造の軌跡を描く。同時に東京文化会館長(1996~2004)として、芸術創造と行政とがせめぎあう場にかかわることで、彼は再度、コミュニティとしての音楽文化という「制度」を生きようとするのである。
 大学の学長として夢見た、音楽専門教育における伝承性(徒弟制度)からの自由と自治(註1)も、市民的連帯による文化創造も、ヨーロッパにおける伝統的な文化的統治につらなる芸術音楽のあり方とは、あきらかに異なるものである。けっきょく、創作技法じたいに内在する知のヒエラルキーとしての、歴史的音楽の実態を超えて、さらなる自由を獲得することはできない。接ぎ木された「自由」は、やがて固有の文化において新たな「制度」を構築するのである。

◎東方から

 1970年の万博は、まさに文化資本としての音楽文化の新たな様相を予示したともいえる。三善晃が音楽という旧制度に教育からかかわろうとしたのと同時期に、武満徹は西武劇場のオープニングとして、それ以降20年間におよんでつづくことになる「今日の音楽」(1973~92)のプロデュースをおこなう。パルコに代表される都市文化の記号としての「東京」を仕掛ける複合的商業資本にとって、むしろ伝統的音楽と等価な(あるいは反転としての)現代音楽という構図こそが、より刺激的であったのであろうか。
 武満という、異なる伝統的音楽文化にたいして等しい距離(ディスタンス)(註2)をとりながらアプローチする、自己選択的なアマチュアリズム(消費主体)としての作曲スタイルは、商業資本のあり方とも共振しやすい。そもそも生涯を多数の舞台・映画音楽(商業音楽)の作曲家としても生きたこの作曲家にとり、現代音楽とはその延長線上の創作として、時代と事実上、きわめて共時的な関係を保つ領域なのだ。
 《弦楽のためのレクイエム》のいっけんつたなくみえる初期の書法も、映像におけるカット割りを思わせる構成(形式)や、カメラ・ワークにもなぞらえられる音楽的テクスチュアの濃淡にもとづくものといえよう。これらはたしかに内面的な表現というより、前掲のエッセイにも現れる〈他者〉としての音楽的オブジェとの距離のとり方ともいえる。1980年代以降の豊穣なオーケストラ作品群も、こうした無数のかけがえのない夢の散乱とも思える、音楽的断章(フラグメント)としての高価なオブジェ=コレクションなのである(註3)
 武満の音楽には、ヨーロッパの芸術音楽への自由で誤解に満ちたまなざしがある。現代音楽という商品記号は、こうした憧れと、たまさかの所有の夢のうちに、高度資本主義による文化戦略という、新たな統治を生み出す迷宮のネットワークの一端をつむぐのである。

註1 「三善─学生との精神的なつながりでしょうか。学生を信頼してみようと自分でも思ったし、学生のなかには、あの頃は三善の存在があって、いい時代に出くわしたな、と今、言ってくれる人もいます。
 丘山─つまり学生にとっての「学長」のあり方、関係性、それまでとはまったく違うもので、そこにある一種のシンパシーみたいなものが生まれた、その幸福ですね。
 三善─そう。それまでは、先生と生徒という形式的な関係、位置づけに慣れていたでしょう? でも、ほんとは学生・生徒たち、とても敏感。そして、「みんなと一緒」というのを感じさせた。前にお話しした女の子の「みんながいたから、私がいた。だから良かった」という、あれね。
 (後略)」(三善晃・丘山万里子共著『波のあわいに 見えないものをめぐる対話』春秋社、2006年、107頁)
註2 「むしろこの作曲家特有の「距離(ディスタンス)=関係」の認識というべきであろう。作品のタイトルとしても用いられる《ディスタンス》は、相反するものの相互の位置関係を見極める装置であり、また多数が「関係」において固有の生を生きる意味でもあるのであろう」(小鍛冶邦隆「ドゥブル・レゾナンス 武満徹のアンサンブル作品をめぐって」『武満徹 音の河のゆくえ』平凡社、2001年、55頁)
註3 武満の初期、および1980年代以降の一般的様式については、前掲拙論「ドゥブル・レゾナンス」を参照。

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