◎連載
第9回 メシアン、あるいは「知の継承(Le savoir transmis)」をめぐって

音楽・知のメモリア (小鍛冶邦隆)

 パリ国立高等音楽院における、オリヴィエ・メシアン(1908-92)の教育活動は、37年間(1941-78) におよぶ。当初1941-47年に和声クラス教授として、また1947年以降は当時の音楽院院長クロード・デルヴァンクール(1888-1954)により任命された分析クラス教授としての教育活動が知られている。後者は「音楽美学・分析」(-1954)、「音楽哲学」(-1961)、「音楽分析」(-1968)と名称を変えながら、メシアンのもっとも知られた教育活動として中核をなすものといえる。作曲クラスを指導した期間が、メシアンの教育活動の最後の時期(1967-78)にすぎないことは意外に知られていない[註1]
 3期にわたる教育活動は、結果的にそれぞれ音楽行政上のできごとと関連すると考えられよう。1941年の和声クラス教授就任は独軍占領下、ユダヤ系教授アンドレ・ブロックの罷免にともなう結果であり、1947年の「音楽美学・分析」クラスの創設は、和声クラス教授としてかならずしも成果を出すことのできなかったメシアンほんらいの長所を生かす選択であったと推測される。またレイモン=ガロワ・モンブランにより1966年に任命され、67-68年の「音楽分析」クラスの最後の学期と重複しておこなわれた作曲クラスにおける最初の教育活動は、1968年の5月革命に起因する音楽院の制度改革と関連する。
 以下、メシアンの教育活動を概観しつつ、必要におうじてメシアン自身の創作活動との関連性にも留意しながら、フランス近・現代における作曲専門教育の歴史性について若干の考察を試みたい。

◎書法(エクリチュール)の教育

 パリ高等音楽院の設立以来の教育システムの中心は、楽器の実技教育はとうぜんとして、さらにソルフェージュ教育と和声法・対位法(フーガ)からなる作曲書法学習(エクリチュール)であるといえよう (とうぜんながらソルフェージュ教育と作曲教育は今日にいたるまで、緊密に関連した歴史的経緯がある) 。
 19世紀フランスにおける作曲教育の目標はオペラ作曲家の養成にあり、「ローマ大賞」にみられるように音楽院での最終コンクールは、あたえられたテキストによる劇的情景としての《カンタータ》の作曲を実践するための、声楽的声部書法としての和声・対位法(フーガ)、さらにオペラふう管弦楽法の修得が最優先課題であった。今日では多少理解しがたいかもしれないにしても、フーガ作曲の成果がつねに作曲科修了の、あるいはローマ大賞の予備試験の課題となるのは、オペラの重唱・合唱の書法の実践としての必要性ゆえなのである。
 これらの歴史的慣習にもとづく独自の教育体系は、1905年、例外的に音楽院の出身者でないG. フォーレの院長就任による、書法クラスと作曲法クラスの分離や、音楽史クラスの創設をはじめとする制度改革にもかかわらず、維持されつづけたといえる。
 ところでローマ大賞受賞(入賞)者でもないメシアン(2度の試みは失敗に終わった)独自のキャリアは、音楽院ほんらいの歴史性と複雑に交差しながら展開するのである[註2]
 1919年以来音楽院で学んだメシアンであるが、1926年に和声法の2等賞、さらに対位法とフーガ(1926)、ピアノ伴奏法(1928)、音楽史(1929)、作曲法(1930) での各1等賞獲得は、M. デュプレのオルガン演奏と即興クラスでの1等賞獲得(1929)において、はじめて総合的な成果をみる。H. ビュセールの作曲クラスを中心とするローマ大賞作曲家たち(H. デュティユーらに代表される)と異なり、P. デュカの作曲クラスからオルガ二スト(教会音楽家)へ、というメシアンのキャリアは、カトリック信仰によるというよりも、ある意味、音楽院における伝統的学習のもたらした偶然ともいえる。

◎伴奏法クラスとオルガ二ストの伝統、あるいはミュジシャン・コンプレ

 「そして十六か十七のころ、私の和声の先生だったジャン・ギャロンが、オルガンを勉強するために私をマルセル・デュプレに紹介してくれました。私がカトリックだったからというのではなく、私のなかに即興演奏の才能を認めたからなのです。当時わたしはピアノでの伴奏のクラスの賞を得ていました。このクラスでは旋律課題に和声をつけることだけではなく、初見(デシフラージュ)やオーケストラの総譜をピアノで弾くことなどもやったのですが、旋律課題が鍵盤上での即興の重要な部分を占めていました。そして私がこの方面で才能を示し、オルガンという楽器が本質的に即興向きのものであるため、オルガンのクラスに入れたわけなのです」[註3]
 伴奏科(正式にはピアノ伴奏科 Classe d'accompagnement au piano)についても、同様に音楽院の歴史的な教育制度と重要な関連がみられる。今日理解されるピアノ伴奏という意味と異なり、伝統的な総譜視奏の訓練(accompagnement pratique)と、ほんらい和声法クラスにおける伝統的な通奏低音法の実施の学習過程としてあったaccompagnement d'harmonieをまとめ、「伴奏科」クラスが新設されたのは1878年のことである。1880年に1等賞を獲得たドビュッシーが、はじめてその才能を公式に評価されたのもこの新設クラスにおいてであった。
 オルガン・クラスとは別に、ピアノ伴奏科では初見視奏、総譜視奏や通奏低音法のみならず、教会音楽家=オルガ二ストの伝統的な修練、必要におうじてコラールの和声付け、前奏や間奏の即興と移調の技法などが、かたちを変えつつも基本的な課題とされてきた経緯についてはあまり知られていない[註4]
 とうぜんながら高度に実践的なそのあり方は、バッハに代表されるようなバロック以来の「完全なる音楽家」ミュジシァン・コンプレ(musicien complet)の伝統の中核をになうものなのである。
 こうした過程からメシアンが1931年以降、聖トリニテ教会オルガ二ストとしての半世紀以上にわたる職歴と、パリ国立高等音楽院での教育活動や自身の創作活動を総合していったところに、単純にカトリック信仰のみに帰することができない経緯があることをじゅうぶんに理解する必要がある。

◎楽曲分析と作曲法・その歴史性について

 音楽院における作曲専門教育と書法クラスについてすでに述べたが、19世紀前半には音楽院教授A. レイハ(ライヒャ)に代表される、既存の作品の分析による作曲法の分類から創作を学ぶ方法論が重要であった事実を知る必要がある[註5]。20世紀初頭のV. ダンディ『作曲法講義』(1903-50)にいたる、こうした伝統の延長線上にメシアンの「音楽分析」クラスのあり方を規定するべきであろう。そこでは従来から無批判に語られすぎるきらいのあった、伝統の見直しや前衛音楽の最前線としての評価のみでは語れないものがある。
 メシアンは、M. エマニュエルの音楽史のクラスと、デュプレのオルガン即興演奏から、古代ギリシアの韻律法(メトリック)に関心をいだいたと語っている。さらにヒンドゥー(インド)のリズムにも興味の対象をひろげてゆく背景には、近代フランス特有の異国趣味(エキゾティスム)、あるいは植民地主義(コロニアリスム)すら想像できる。しかしながらこれらは、1940年代に作曲された《世の終わりのための四重奏曲》(1941)、《アーメンの幻影》(1943)、《幼子イエスに注ぐ20のまなざし》(1944)から《トゥランガリラ交響曲》(1946-48)をふくむトリスタン3部作にみられる、カトリック信仰とシュールレアリスムの臨界閾同様に、『わが音楽語法』(1944)に分析可能な作曲技法としてまとめられた帰納的な原理における、素材の水準を語るにすぎない。なによりもここで追究されているのは、作曲の方法論であり、それらは「分析」という過程において顕在化するのである。
 6年間で終わったメシアンの和声法クラスからは、Y. ロリオとP. ブーレーズという2名の1等賞受賞者しか出なかったにしろ、クラスでは常時、あきらかに和声学習の領域を逸脱しながらも、さまざまな作品の分析がおこなわれていた。
 同時期に音楽学者G. B. ドゥラピエール宅でおこなわれていたメシアンによる私的な分析講座でも、メシアンはブーレーズ、S. ニッグ、P. アンリといつた和声クラスの生徒たちに、バルトーク、ベルク、シェーンベルクやストラヴィンスキーと自作品を中心に、新たな音楽的興味と知識をあたえていた。こうした新しい音楽技法の受容が、分析をつうじての作曲技法の分類・実施という手順でおこなわれたところに、メシアンと伝統的な作曲技法の修得の方法論との一致がみられる。やや遅れて開始された、R. レイボヴィッツによる新ウィーン楽派の音楽と十二音技法についての私的講座が、メシアンの生徒たちを本格的な音列技法へとみちびく[註6]
 やがてダルムシュタット(1950-53)ほかでの、教育活動の広がりと同時に、さらに集中的な音楽分析による過去と現在の音楽のあり方の探究が、パリ国立高等音楽院でのメシアンの「音楽分析」クラスにおいておこなわれる。

◎前衛・秘教(1949-1960)

 1951-52年度のメシアンの音楽美学・分析クラスの聴講生リストにはシュトックハウゼンやクセナキスの名前がみられる。こうした戦後の前衛音楽の中心となる若い作曲にたいする影響は、メシアンの啓かれた音楽思想と教育の証として、しばしば語られてきた。たしかにシュトックハウゼンはメシアンのピアノのための《音価と強度のモード》(1949)を1951年のダルムシュタット現代音楽講習会で聴いて興味をもち、1952年(1月以降)の短期間、パリ国立高等音楽院のメシアンの音楽分析クラスに登録したものと思われる。しかしメシアンが語るように当時とりあげていたモーツァルトのアクセント法がシュトックハウゼンにあたえた影響はきわめて限定的であるし、むしろシュトックハウゼンがフランス国立放送局で制作した実験的なミュージック・コンクレート作品《エチュード》(1952)と同時期に制作した、メシアンの《音色─持続》(1952)の成立の経緯のほうに関心がもたれる。《音価と強度のモード》は、3つのモード=12の音高と24の持続(音価)、12のアタックと7つのダイナミクス(強度)を組み合わせ、高・中・低音域でそれぞれの単音が特定の音高、音価、アタック、強度をそなえた3分半ほどのピアノ曲であるが、ブーレーズやシュトックハウゼンらに強い影響をあたえ、結果的に全面音列技法の実現を加速化したのは事実であろう[註7]。有限な人間にあってはリズム=時間の分割の試みをつうじてのみ、初めも終わりも継起もなきもの「本質的に永遠なるもの」を希求することができるというメシアンの音楽思想が、その技法的側面において、1953年以降のシュトックハウゼンの電子音とテープ操作による新たな創作原理を暗示したといえる。ドイツに帰国後に制作されたシュトックハウゼンの2つの《電子音楽習作》(1953,54)において試みられたのは、純音とノイズ、時間と可聴形式をめぐる、伝統的音楽では実現できなかった理論的な作曲の新たな方法論であったといえよう。さらにシュトックハウゼンは電子音楽制作の経験を前提に、ドビュッシーやウェーベルンの音楽の新たな評価を試みるのである[註8]
 メシアンのカトリック的・秘教的ともいえる創作と、戦後の若き前衛作曲家たちとの関係が、技法的・歴史的な一種のねじれをともないながらも、1950年代をつうじて豊かな創意と成果を生み出したのは事実であろう。またメシアンにおいてこの時期は、自然界の現実音=鳥の歌の採集・変形・編集といった過程と作曲手法の一致から生み出された《鳥の目覚め》(1953)、《異国の鳥たち》(1956)、またその集大成としての《鳥のカタログ》(1956-58)から、時間(持続)における数的神秘論、鳥たちの歌や大自然の音響のノイズを思わせる複雑な複合音の彩色法による《クロノクロミー》(1960)にいたる豊穣な創作時期でもあったのである。これらの作品でもちいられた手法についても、《異国の鳥たち》がミュージック・コンクレートや電子音楽における音源と加工・編集の過程を思わせる反面、ヒンドゥー音楽に由来するかの《鳥の目覚め》の真夜中から正午にいたる現実的時間と、《クロノクロミー》における音楽的時間の持続(音価・リズム・韻律)による再構成が対峙することなどからは、メシアンほんらいの関心と前衛音楽からの複雑で屈折した影響関係がみて取れる。

◎知の継承

 メシアンはみずからをカトリック信仰にもとづく作曲家にして教会オルガ二ストと定義し、宗教的想像力を起点にして、永遠の象徴である限定と不可能性としての「移調の限られた旋法」「逆行不能リズム」「均斉置換(permutation symétrique)」などの作曲技法をもちいた秘教的創作をおこなったと考えてよいだろう。
 オルガンの音響は、その宗教的イメージと同時に、近代の慣用的、限定的な音律から逸脱する、複雑な倍音構造によって、メシアンの前スペクトル的な音響的発想[註9]を支援しているし、また独自の時間論は戦後の前衛音楽における時間と形式の再考にもかかわりながら、脱西欧的な視点をも含むといえよう。
 しかしながらすでにみたように、古代ギリシアから中世の音楽論、そして「アルス・ノヴァ」からルネサンスにいたる定量的=合理的記譜法にもとづく音楽技法の延長線上に、みずからの音楽を分析的に再構築するメシアンの姿勢は、あくまで西欧的知の伝承と深くかかわるものである。そしてこれらの「知」は、さらに継承されるべきものとして、(分析をつうじて)再発見されねばならないものでもあった。メシアンにおける教育活動とは、職能としての音楽家と同時に、知の継承者としての音楽家の象徴的表現でもあったのである。
 さらに18世紀以前には伝承的な職制にすぎなかった作曲と演奏を、技術と様式の名のもとに教育制度にとりこむことに成功したのが、19世紀から20世紀初頭にかけてのパリ国立高等音楽院の業績(アカデミズム)であるならば、メシアンという存在はまさに、継承されるべき音楽における、制度としての知の実体化の例証として考察されなければならない。

註1 筆者は1977-78年のメシアン最後の学年に在籍した。筆者の経験では作曲クラスにおいても、メシアンの主たる関心事は「分析」であった。
註2 ドビュッシーは3度目にして受賞、ラヴェルが5回失敗し、ラヴェルの師フォーレはそのスキャンダル(1905年)を、前院長Th. デュボアの退官をうけての次期院長選に利用し、音楽院院長に就任した。ローマ大賞は、この制度にまつわる作曲家たちの反逆の伝説と相反して、ベルリオーズ以来、つねに彼らの最大の関心事であった。
註3 『オリヴィエ メシアン その音楽的宇宙──クロード・サミュエルとの新たな対話』戸田邦雄訳、音楽之友社。原題はMusique et couleur (音楽と色彩)、また本稿のタイトルにも引用した「Le savoir transmis(知の継承)」の章は、邦訳では「教育活動と弟子たち」と意訳されている。
註4 戦後(1949年以来)、N. ブーランジェからH. ピュイグ=ロジェにいたるピアノ伴奏科教授はオルガ二ストである。筆者はピアノ伴奏科でピュイグ=ロジェに最後の3年間(1977-80)を学んだ。音楽院退官後の女史の東京芸術大学客員教授としての業績については、船山信子編『ある「完全な音楽家」の肖像──マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』(音楽之友社)を参照。
註5 小鍛冶邦隆『作曲の技法──バッハからウェーベルンまで』(音楽之友社)の序章参照。
註6 のちのブーレーズの過激な言説にみられるように、メシアンとレイボヴィッツ両者の私的講座のあいだでの生徒たちの音楽的意識の亀裂が、戦後のフランス現代音楽に無視できない影響力を行使してゆく。
註7 メシアン自身の《音価と強度のモード》についてのひかえめな評価にもかかわらず、同曲のモードと発想をもちい、1951年にブーレーズは2台のピアノのための《構造1a》で全面音列技法を試みている。
註8 シュトックハウゼン「ウェーベルンからドビュッシーへ──統計的形式のためのノート」(1954)、『シュトックハウゼン音楽論集』(清水穣訳、現代思潮社)
註9 1967-68年度のメシアンの作曲科クラス初年度に、スペクトル楽派を代表するトリスタン・ミュライユ、1969年にはG. グリゼーが登録している。

 (本稿は、『ベルク年報[12]2006-2007』に掲載された拙稿を一部改稿したものである)

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