『音楽と病のポリフォニー』の序文を公開します

9月10日発売予定の小林聡幸著『音楽と病のポリフォニー──大作曲家の健康生成論』の序文を公開します。ここに記載されているとおり、本書は「病跡学」に分類される書物ですが、たんに作曲家のかかえた疾病を精神医学的・心理学的に分析して、その活動との関係、作品への影響を明らかにするだけでなく、健康になるための要因を解明し強化するという「健康生成論」、逆境やストレスをうけとめ、しなやかに跳ね返す「レジリアンス」の立場から、作曲家の「セルフセラピー」としての創造活動に光を当てたものです。どうぞご期待ください!

 病気の音楽などというものがありえるだろうか。
 たとえ病気の人が書いた音楽であっても、音楽的論理によって構成されたものであるならば、そこには精神がある。一定の理(ことわり)をもって成立しているものを何の権利があって狂っているなどと評することができようか。

 マーラーの音楽が普通のレパートリーになりつつあった一九七◯年代、評論家たちはこぞってその音楽を「分裂症的」と評したものである。それは、マーラーの音楽のもつ、複数の旋律がたがいにおかまいなしに流れたり、異なった様式の旋律が並べ合わされたり、旋律がとつぜん短縮されたり、挿入があったり、卑俗な音楽がコンテクストを外れて闖入してきたりといった特徴について「分裂している」という印象をもったにすぎない。それは精神分裂病(統合失調症)の「分裂」の意味と必ずしも同じではない。
 いくらこのような特徴を並べてみたところでマーラーの音楽にはストーリーがあり、流れがあり、音楽が統一体を形成していることを否定することはできない。それをいうなら、エピソードがつぎつぎと転換していくショスタコーヴィチの第四交響曲のほうが、よほどこの意味での「分裂症的」だろうと思う。とうぜん、そのときに基準枠となっているのが古典派から初期ロマン派の音楽の論理であって、ソナタ形式とか変奏曲とかいった形式の物語性や、調性のもつ物語性を逸脱し、破壊しているということである。しかし小説などと違って音楽における物語性はソナタ形式のA─B─Aのようにひどく単純なものだ。しかも時代をさかのぼれば、オペラの有名な旋律を器楽で羅列したポプリ(接続曲)などというジャンルもあり、これなどはまさに「分裂症的」な様相をおびざるをえないが、そのように聴かれたわけではない。

 調性の論理を放棄した音楽がある。これを狂気の沙汰という人もいるだろう。
 あるいは微分音の音楽や、和声も旋律もないトーンクラスターなどをもちだしてもいい。しかしここには別種の論理が通っている。
 ではジョン・ケージは?
 おそらくチャンス・オペレーションにも無秩序の生成という論理がある。そして聴くほうが聴取のかまえを変えることをケージは期待しているのである。音をそのものとして、そのまま聴くことを。
 だいたい、音を自然のままにおいておこうというケージはいかにも健康そうだった。そして「分裂症的」なマーラーにしてからが神経症的ではあったと思うが、妻アルマによって粉飾された、病に倒れた悲劇の天才という像を洗い流した前島良雄の評伝を読むと、精力的でいたって健康な人だったとしか思えない。でなければ陰謀うずまくウィーン歌劇場の芸術監督を務めつづけることはできなかっただろう。

 だが人々は狂気と天才をひとりのなかにみようとする。苦悩と救済を作品のなかにみようとする。
 そうした考え方はギリシャ時代からあるようだが、それが強まったのは、作曲家が職人あるいは使用人から芸術家へと変わった時期ではないかと思われる。古典派の作曲家というと、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが挙げられるが、ハイドンは生涯を宮廷音楽家、すなわち使用人として過ごし、ベートーヴェンは芸術家としての自負をもった。モーツァルトは聖職者=貴族の使用人としてキャリアを重ね、短い人生の終わりのほうでフリーランスとなった。時代としては一八○○年前後である。
 このころ、音楽にたいする考え方、音楽の聴き方の大きな変化が起こった。それまで歌詞のない音楽、すなわち器楽曲は感情を漠然と示すことができるだけのもので、感覚的な楽しみをあたえるものにすぎないと考えられてきたのが、一八○○年前後に急速に器楽曲の価値が高まるのだ。思想的には観念論の音楽批評への導入であり、音楽は言語で到達不能な深遠な思想を表現できるということになり、哲学にも優るものとされるにいたる。そして同時期に登場するベートーヴェンの作品がまさにこうした思想を体現するものとして受けとられることとなる。しかもそれまでは作品そのものが聴衆を導いていくのであり、音楽がわかりうるものであることに作曲家が責を負っていたのに、ベートーヴェンの音楽は並はずれた途方もないものを聴衆に開いているだけであり、聴衆には能動的に崇高なる世界を理解する責任が課せられるようになった。この時期の評論には「超自然的」「神秘的」「聖なる」「神的な」「天の」といった言葉で音楽が記述されるようになる。ベートーヴェンをはじめとする「巨匠」たちは神格化され、高級な芸術という概念が、低級な音楽との対比のもとに生まれてくる。ロマン派の時代である。
 社会的な背景としては、音楽の場が貴族のサロンから市民の集うコンサート・ホールに移り、音楽が「商売」として成立し、「もっぱら自分の書きたい音楽を書くことによって生計を立てていくフリーの音楽家という職業が誕生した」わけである。

 ロマン派をどの範囲に捉えるかは諸説あるが、ベートーヴェンやシューベルトの後期からロマン派の圏内にあると捉えられたり、晩年のハイドンには、すでにベートーヴェンを飛びこえてシューベルトに結びつくロマンティックな経路があるなどという論評もある。じつは芸術史のロマン主義に相当するのは音楽では古典派とロマン派であり、しかも音楽では芸術全体から少し遅れて生じているとすると、古典派とロマン派で線引きするのはあまり意味がないようである。
 ロマン主義は啓蒙主義の反動から生まれてきたといわれ、すべてを理性のもとに引き出して、普遍性を求め、合理的に考えていこうという啓蒙主義に対して、非合理的・非理性的なもの、人間存在の割り切れない個別性や、理性を超えた神秘性を追求していこうという流れである。科学的世界観のもとで生活している現代人からするとロマン主義とは荒唐無稽なものだが、それでもロマン的な心性は現代においてむしろ主流の感性である。
 椎名亮輔は、古典派とロマン派は連続したもので、そこを覆っていたのは狂気の音楽だと述べている。狂気の音楽とはどういうことか。椎名はブフォン論争に言及する。ブフォン論争とは、古典派の音楽が芽吹くころ、作曲家ラモーと有名な哲学者のルソーがフランス・オペラが勝るかイタリア・オペラが勝るかと論争したものだが、その背景には、声楽すなわち言葉がになう意味に音楽が付随するようなあり方と、機能和声を駆使して声楽によらず器楽のみによって意味をあらわすあり方(「絶対音楽」)の対立がある。そしてけっきょくのところ、音楽におけるロマン主義│すわなち古典派とロマン派│は音楽のみによって意味をになおうとする狂気の音楽だというのである。

 さて、本書は病跡学(パトグラフィー)という分野に属する。病跡学は狭義には傑出した人物の病理と創造性の関係を論ずる学問である。それぞれの章は個々の作曲家にたいする興味をもとに独立に専門誌に発表されたものであるが、筆者の意識に通奏低音のように流れていたのは、ロマン派とは何だったのだろうかという疑問である。
 前述のようにロマン派的な美学は過去のものではなく、前衛芸術家たちはそこから抜けだそうとはしているものの、現代にも広く行きわたっている美学であり、しかもそれが狂気と名ざされている。おもしろいではないか。なぜそんなことになっているのかというと、筆者としてはあるていどの結論が出ているのだが、進化心理学的にみて人間というものは、合理的な世界観と迷信とが矛盾していても平気で共存可能にできる認知的特性を発達させてきたと考えられるのだ。科学がこれほどまでに現実に働きかける力をみせつけているのに、人間というものは合理的な考えだけでは何かもの足りなくなってしまうものらしい。
 ロマン派はそのような非合理を追いかけた運動だったのではないか。そして、それは市民社会の勃興という社会変化とともに、職人としての音楽家から天才としての音楽家へという変遷がともなっていた。職人とは訓練と努力によって身につけた力を行使する者である。しかし天才とは天から、あるいは神からあたえられた非合理的で非理性的で神秘的な能力だ。非合理的で非理性的で神秘的なものとはまた悪魔的なものでもあるし、狂気といってもいい。そこで「天才と狂気は紙一重」に代表されるような、常軌を逸したものが天才というクリシェが生まれたのではないだろうか。
 そこで「狂気」とされるものは統合失調症に代表される精神病なのだが、むしろロマン主義の時代とはヒステリーの時代ではなかったかと思われる。トリヤによれば、ロマン主義時代におけるヒステリーの勃興は「女性は性的対象という状態から、多様な女性像を具体化する人間という状態に移った」ということとかかわっている。おそらくさらには産業革命と近代的な個の確立もその背後にあるだろう。ロマン主義の時代は芸術史的には一八世紀末から一九世紀初頭とされるが、音楽史的にはほぼ一九世紀を覆う。一九世紀を通じ、多くのヒステリー患者が生ずるなか、一九世紀後半にシャルコーが登場して科学の光のもとにヒステリーの姿を暴きだそうとして、まんまとその所作にだまされるのである。ヒステリーとは非合理的・非理性的なものであり理性を超えた神秘であるという点でロマン主義的である。そして、ヒステリーが言葉によって意味を伝えるかわりに、身体機能障害に意味をになわせようとするのだとみれば、それは音楽のみによって意味をになおうとする狂気と相同ではないか。
 本書ではそのような疾病と創造性という古典的なセットで論じているのが、シューマンとブルクミュラーである。いずれも内省的なロマン主義者だが、他方、ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーといった自己顕示型の天才が対極的な類型としてあるように思われる。後者はえてして狂気の身ぶりを見せつつ、そのじつ、かなりに健康的ではなかったか。
 ロマン派の最後に、ドン・フアンやドン・キホーテの物語を音楽のみで描きだしたばかりか、食事中のフォークのカチャカチャいう音まで音楽化できると豪語するリヒャルト・シュトラウスが登場する。彼はいわばロマン派の内部からロマン派に幕を引いたのであり、それはいたって狂気とは縁遠い彼の性向のなせるところと言えなくもないのであるが、その晩年にいたってロマン主義の極北とみなせるナチズムと対峙しなければならなくなるのはじつに皮肉だ。

 他方、一九世紀は進行麻痺の時代でもあった。これが梅毒と完全に結びつけられるのは一八七〇年代であるが、梅毒が狂気を引き起こすことがあることは人々に知られていた。いつ狂気という非理性の闇に落ちこむかもしれぬ恐怖などというのもいかにもロマンティックだ。シューマンはおそらくそのような恐怖にさいなまれたのであるが、彼自身が進行麻痺だったという積極的な証拠はない。梅毒に罹患し死の恐怖に怯えたシューベルト、進行麻痺初期の耳鳴りが作品の重要なモティーフとなったスメタナ、統合失調症とも進行麻痺ともいわれるヴォルフなど、ロマン派と梅毒はなかなかの重要テーマではある。しかし検査手段がじゅうぶんではなかった当時の診断をどこまで信じていいものかは疑問が残る。
 サナトリウム文学に代表されるように、病気は甘美でロマン的、そして破滅的なものとしてとりあつかわれた。「超自然的」「神秘的」「聖なる」「神的な」「天の」ものと病気が重ね合わされていたのである。しかしそれは病気というものの実情から外れたロマンティックな幻想にすぎない。たしかに病跡学においては、病理が創造性を生みだすといった事象に注目し、それは強くわれわれの興味を惹くところである。それでも多くの創造者たちは病気とは無縁のところで創作しており、数としてはそのほうが多いのではないだろうか。

 何らかの脆弱性をもった個体がストレスを受けて精神疾患を発症するというのが、従来の疾病モデルであった。最近こうした考えを転倒させて、ストレスがあってもそれを受け止め、しなやかに跳ね返すレジリアンス概念や、健康を生みだす要因が何なのか追求する健康生成論が注目されている。
 病跡学では病が創造性を高揚させたり、創造行為が病を癒したりといったことが論ぜられるが、なぜ創作者が健康を保っていたのかはあまり問題にされてこなかった。長寿者が健康の秘訣を聞かれたり、著名人が健康維持法を開陳したりといったことはあるが、通常、そうしたことはひっそりと隠されていたり、本人にとっても気づかれてさえいないことなのだろう。だからといって健康のメカニズムを研究しようとなると多数の人にアンケートをとって、良好な人間関係があるとか、生きがいをもっているとか、言ってしまえば月並みな結果が出てくるようなものになりがちである。そこで、大作曲家たちの人生と創造をたどっていけば、月並みではない観点が出てくるのではないか│。それが本書ではもうひとつの通奏低音となっていて、とくにシュトラウスとショスタコーヴィチ、そしてシェルシとアイヴズの章で展開した。

 とはいえ、こうしたことはすべて後知恵のようなものである。いずれの章も当該作曲家への偏愛のもとに書かれた。愛するがゆえに書き散らさざるをえなくなったのが、本書である。読者がこれを読んで彼らの曲を熱烈に聴きたくなったなら、筆者はこのうえなく喜びを感ずるだろう。