アメリカの指揮者で作曲家、ピアニストとしても知られたマイケル・ティルソン・トーマスさん(MTT)が4月22日、膠芽腫(悪性の脳腫瘍の一種)のため逝去されました。享年81でした。
ティルソン・トーマスさん死去 米指揮者、ロンドン交響楽団など|朝日新聞
弊社は2012年、MTTとサンフランシスコ交響楽団の来日を記念し、テクノロジーを駆使し、市民と連携しながら、クラシック音楽にイノベーションを起こした彼らの活動とその成功哲学を紹介したドキュメント、『オーケストラは未来をつくる──マイケル・ティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の挑戦』を出版しました。
同書の著者である音楽ジャーナリストの潮博恵さんから、追悼文を寄せていただきましたので、ここに掲載いたします。
マイケル・ティルソン・トーマスが光に還った。
彼がたくさんの素晴らしい音楽を私たちと分かちあってくれたことに、ただただ感謝するばかりである。私が彼とサンフランシスコ交響楽団のコンサートを夢中になって聴きに行っていたのは2006年から2012年の約7年。演奏もプログラムも新たな発見とインスピレーションに満ち、ライブの楽しさにあふれていた。私は「昔は良かった」とは言わないと決めて生きているが、彼らのコンサートにかんしては例外で、当時サンフランシスコに在住していたり私と同じように日本から聴きに行っていた友人たちとは、話すたびに「あのときはほんとうに楽しかったね」と繰り返している。
2021年に悪性の脳腫瘍だと公表されて以来、サンフランシスコの聴衆とは「これが最後になるかもしれない」という公演が数回あり、そのたびにネット上にもメッセージが寄せられていたが、内容がほぼふたつに集約されることに驚いた。ひとつはティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の公演を聴いたことが「自分の人生のたいせつな一部になっている」というもので、もうひとつが「音楽を聴くとはどういうことなのかをそこで知った」というもの。多くの人が同じ気持ちだったことが感慨深いし、この声こそがティルソン・トーマスという人物が何をなしとげたのかを如実に表していると思う。
ティルソン・トーマスの晩年は、怒濤の終活といえるほどの総括活動がなされたことも特徴的だ。ライフ・ストーリーの振り返りや祖父母が活動していたイディッシュ・シアターの資料の整理などいろいろあったが、私がとりわけ実現して良かったと思っているのは自作曲のCD集GRACE(Pentatone Classics)の発売だ。彼の音楽的なルーツを知るという視点や音楽言語のハイブリッドぶりがおもしろいだけでなく、彼が生み出す音楽のキモがどこにあるのかが浮かびあがっていてじつに興味深い。また作品には、人となりをよく知る人物へのプレゼントとして書かれた曲も複数あり、作曲が生活の一部になっているその自然なありようは、作曲という行為への身軽さという点でも一考をうながすものとなっている。
彼への追悼にあたり、一貫して人々と音楽を分かちあったその生きざまに敬意を表し、拙著『オーケストラは未来をつくる──マイケル・ティルソン・トーマスとサンフランシスコ交響楽団の挑戦』でもとりあげたティルソン・トーマスの言葉を紹介したい。クラシック音楽を聴くにあたって必要なものは何かという問いへの答えである。生きているというだけで、あなたは必要なことをすべて知っている。
(2012年のTED talkでは、You do not need to worry about knowing anything. If you are curious, if you have a capacity for wonder, if you are alive, you know all that you need to know. と表現している)本を書いた当時から、私はずっとこの言葉を「クラシック音楽を楽しむためには、専門的な知識が必要なのではなく、その中に虚心坦懐に飛びこんでいけばいい」という意味だと捉えていた。ところがつい半年ほど前、ふとひらめいたのだ。「ひょっとして、もっと深い意味だったのではないか?」と。
音楽を聴くときにそれをどう受けとるか、そのベースになるのは、自分がこれまでの人生で経験したすべてのことである。だから「生きているというだけで、あなたは必要なことをすべて知っている」のだ。そして人生で経験したすべてがベースになるのだから、たんに知識が(あれば経験の一要素になるけれど)必要条件ではないということを超えて、どのように日々を生きたかという積み重ねこそが重要だということになる。言い換えれば、音楽を楽しむコツは、自分がどう人生を味わってきたかにかかっているということだ。クラシック音楽にかんして、とくに日本では教養と結びつけて捉えられがちなので、この見方によって救われる人も多いのではなかろうか。
というわけでみなさん、日々人生をおもしろがり、そして音楽もおおいに楽しみましょう! それがティルソン・トーマスから受けとった音楽のバトンをつなぐことになると信じて。
潮 博恵
マーラーほか本格的なクラシック音楽の解釈者として第一線を走りながら、最先端のメディアやテクノロジーを駆使して、オーケストラのめざすべき“未来”を誰よりもクリアに見せてくれた唯一無二の存在でした。どうぞ安らかにお眠りください。