湯浅譲二さんの逝去を悼んで

作曲家の湯浅譲二さんが7月21日(日)、肺炎のためご自宅で逝去されました。享年94でした。

訃報 湯浅譲二氏が逝去されました|TOKYO CONCERTS
https://www.tokyo-concerts.co.jp/52185/

弊社は2019年9月、湯浅さんの90歳を記念して、『湯浅譲二の音楽』(L.ガリアーノ著/P.バート編/小野光子訳)を刊行しました。このたび、著者ルチアナ・ガリアーノさんと訳者の小野光子さんから、湯浅さんへの追悼文をいただきましたので、ここに掲載いたします。

 作曲家の湯浅譲二が95歳の誕生日を目前に、94歳でこの世を去った。充実し、幸せな人生を送られた方だったと思う。

 彼は同世代の武満徹、ルチアーノ・ベリオ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ヤニス・クセナキスと並んで偉大な作曲家のひとりだった。そしてそのなかの誰よりも、稀有な人間性をもつ人だった。皮肉屋なところもあるが優しく、とびきりの優雅さをそなえていた。子供時代に豊かな自然に触れたり能を学んだり諸芸術に親しむ幸せな時間を過ごしたからだろう、彼は人生の要所要所で洞察に満ちた気づきを得て、それに冷静沈着に対処してきた。そうしたことから音楽における時間と音への新しい独自の視点も得たのだろう。

 1950年代や60年代に湯浅は、同時代の作曲家たちのようにひじょうに美しく、強い印象を残す作品を書いた。その後、知性に導かれて音楽言語や思考において斬新な作品をつぎつぎに創作した。湯浅の歩んだ道は、生涯の友であった武満徹と並走するものだったが、世界ですぐに受け入れられた武満とは異なり、湯浅の作品はより難解だがより豊かさがあり、限られた聴衆からつねに高い評価を得ていた。湯浅はそれを天気のように、逆らってもしかたのないこととして、あの冷静さと笑顔で受け入れているようだった。

 あるふたつの売り場についての小話をご存知だろうか。ひとつは「すぐれたプロの作曲家による、あっという間にできあがる音楽」の売り場。その前には作品を買おうと1キロにわたって人の列ができている。もうひとつは「すぐれた作曲家による、できあがるのに何年もかかる音楽」の売り場。その前に並んで待つ人はいるだろうか?──いないだろう。そう、湯浅譲二の音楽は後者なのだ……。

 私は大学生の頃にマエストロ湯浅と知り合いになりたいと思い、自分の研究対象を湯浅譲二の作品と決めた。それは2012年にケンブリッジ・スカラーズ・パブリッシングから出版され、のちに、手を加えてアルテスパブリッシングから2019年に出版された。

 研究以外の場でも、マエストロ湯浅と過ごす時間にめぐまれた。カフェでの談笑、千葉のご自宅でのひととき、彼の作品が演奏されるコンサート会場などで、作品だけではなく、豊かな人生を歩んでおられる様子やすぐれた知性、意義深い言葉、優しさに触れることができた。私が作品について細かなことを尋ねたり質問を重ねたりしても、いつも親切に接してくださった。

 最後にお会いしたのは、2019年の12月であった。その後コロナ禍で訪日がかなわなくなり、今年4月にやっと1週間東京へ来ることができたのだが、健康状態があまり良くないことを知っていたので、急にお訪ねしてもお疲れになるだろうと気づかい、会うことを控えた。いま、彼がいないことを寂しく思う。そして最大限の尊敬と愛をもって彼のことを思い出している。私たちのあいだに、いわば友情があったことを光栄に思う。私が「先生」と呼ぶことを彼は望まなかった。でも……私にとって彼は、いつもそしてこれからも、ずっと偉大な先生である。

ルチアナ・ガリアーノ(小野光子訳)

 そう遠くはないいつか、この日が訪れると覚悟はしていたが、とうとう来てしまった。最期まで立派に生き、静かに閉じられた94年にわたる生涯に敬意を抱きつつ、心より哀悼の意を表したい。

 はじめて湯浅譲二先生と会話らしい言葉を交わしたのは2000年代の初めだった。おもむろに注射器を出されてご自身で糖尿病の注射をされたのを覚えている。深い静けさのある瞳と佇まいのまま、なにごとでもないかのように自然に処置し、話に戻られた。ひょっとしたら私は驚いた顔をしてしまったのかもしれない。少しハスキーがかったあの声で淡々と簡潔に説明をしてくださった。訃報を耳にして、ふいにそんなことを思い出している。先生との時間は、いつも穏やかだった。

 ガリアーノさんの著書『湯浅譲二の音楽』の巻末に作品リストを掲載したが、ラジオやテレビ、CMのための音楽について追究しきれなかったことがいまでも心残りになっている。調べれば調べるほど見つかった。教鞭をとりながら、コンサートのための緻密な作品を書くアカデミックな仕事のいっぽうで、日常生活を送る一般の人の耳に届く多くの音楽を書いておられた。ジャンルの区別なく〝音楽〟としてペンを執られていたと思う。人と接する態度も分け隔てがなく、いつもていねいな態度で接してくださった。そうした先生の品格は作品にも刻まれている。それでいながら、確たる強さが作品にはある。加えて《ヴォイセス・カミング》や《天気予報所見》、映画『薔薇の葬列』の音楽のようなユーモアや実験性は、かなり挑戦的だ。

 昨晩(8月7日)、豊洲シビックセンターホールでの「湯浅譲二 95歳の肖像」コンサートで、1970年代から2000年代にかけての室内楽作品を聴いた。素晴らしい演奏だった。若い演奏家は楽譜を通して先生の魂を引き継いでいると感じた。また、先生には多くのすぐれたお弟子さんがいる。生前にまかれたたくさんの種子は、これからも芽を出し、枝を拡げてゆくだろう。

小野光子

『湯浅譲二の音楽』が完成し、ご長男の龍平さんによる絵画の鮮やかなブルーに包まれた本をお届けしたときの先生の晴れやかな笑顔を思い出します。どうぞ安らかにお眠りください。