本日発売となる松田美緒のCDブック『クレオール・ニッポン』を「今年のベスト・ワン候補」と賞賛してくれたお一人が、翻訳家・音楽評論家のおおしまゆたかさん。アルテスでは『聴いて学ぶアイルランド』の翻訳を手がけていただいています。そのおおしまさんにこんな素晴らしいテキストをいただきました。この「日本のうた」プロジェクトのどこがどうすごいなのか、どう魅力的なのか、ずばり本質を突いた見事なレビューをぜひお楽しみください。
時間を超え、空間を超え、いま顕れるクレオールな日本語世界
──松田美緒『クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する』に寄せて
文・おおしまゆたか
「異邦のことば」としてうたわれる日本語
松田美緒は「クレオール」を「混在し、拮抗し、融和するルーツ、混じり合った血、そこからはじまる新しい創造の次元」と定義する。「遥か昔から何通りもの道を通って来た人たちが混ざり合ってできたこの日本で、豊かな地域性こそがクレオールであり、そこから歌が紡ぎだされる」。
とすれば、地球上どこでも、そして誰でも「クレオール」でない土地も人もいない。のではあるが、クレオールの濃度の濃淡はある。日本はかなり濃い方であろうといつ頃からか思うようになった。あまりに濃すぎて、そうは見えなくなってしまっている。ひょっとするとこれはクレオールだと一目見てわかるようなところ、近代以降の西インド諸島やシンガポールなどは、まだ濃度が濃くないのかもしれない。
この表題は日本の中のクレオールなところを探すよりは、クレオールとして日本をながめたとき顕れてくる姿をさすのだろう。「いま」「そこ」にありながら隠れている、隠されているものが顕れてくる驚きと歓び、一度も別れたことはないはずなのに遠く離れていたなつかしいものに会う新鮮な想い、てれくささと呼んでもいいと思うが、この音楽を聴き、文章を読むと、そのふたつを共有する。
クレオールとしての日本の位相を、松田は探していたわけではない。異なる伝統、異なる文化に惹かれ、そこに浸るうちに、自分が属する伝統、文化に関心が向かう。そこで出逢ったうた、共振の強いうた、うたいたくなるうたを集めてゆくうちに、徐々に見えてきた。その軌跡が文章に綴られている。うたに導かれるままに、その跡をたどってゆくと、目の前に想いももうけぬ情景が開ける。その体験がくり返される。
それは日本語のうたではあるが、だからこそ異質性は増す。松田は、おそらくはそれを認識し、あえて日本語を「異邦のことば」としてうたう。そうすることで、隠されていたうたは今のうたとして顕現する。
松田が日本語のうたの跡をたどって、時間を超え、空間を超えるのは、日本語もまた、列島の空間に限られず、文字にとらわれず、自在に流れてきたからだ。流れた先で、交わり、ぶつかり、合わさる。合わさるにはぶつからなくては始まらない。ぶつかるのは交わって初めて起きる。過程と結果の区別がつかないような状態のあちこちで、うたが生まれでる。仕事のためのうた、苦しみをやわらげるうた、楽しむうた、名づけることのかなわぬ想いを託すうた。そうしたうたを一つひとつ拾いあげ、ていねいにうたう。隠れていたうたを呼びさまし、新たなうたとして、世に放つ。
してみれば、松田がこれらのうたに遭遇したのは偶然だろうか。あるいは、むしろうたの方が松田を呼んだのではないか。わたしはここにいる。わたしをうたってくれ。そう明確に訴えたわけでは、おそらく無いにしても。
不適切を承知で言えば、そのはたらき方は『指輪物語』のサウロンの指輪の作用に似ている。主から切り離された指輪は、主のもとへもどろうとして、担い手を選び、移ってゆく。指輪そのものに意識があるわけではない。目的があるわけでもない。ただ、おのれがあるべき場所へもどろうとする。
うたもまた、いかに深く隠れされようとも、うたわれることを望む。うたうべき人を求めて、磁場のような、匂いのようなものを発している。ふさわしいうたい手は磁場に反応し、匂いに導かれる。その遭遇が常に幸福な結果に収まるわけではない。が、遭遇した瞬間は幸せではなくとも、時機が熟していつの間にか幸せになっていることもある。
底知れぬ豊饒な響き
そうした磁力ないし魔法が最も効果的に作用したのは6曲目〈こびとのうた〉だ。時間や空間だけでなく、生き方そのものでも遠く隔たった世界から聞こえてきたうた。信仰を保ちつづけること、信仰をもっていることが命に関わる事態を生き延びてきた人びとのうた。ここには、そうした人びとが養った冷徹さと、それに裏打ちされた思いやりの深さが垣間見える。底を流れる根の太いユーモアのセンスも、あるいは必要から身につけてきたのか。百年ぶりにうたわれるうたは松田の声に底知れぬ豊饒な響きを与える。「ほんに」のフレーズはありとあらゆる想いを担う。
松田の声は高く澄んでよく伸びる、透明感が高い。発音が明瞭で、歌詞を見なくてもはっきり聞きとれる。聞きとれても意味のとれないこともあるが、それは松田のうたい方ではなく言葉が異質だからだ。はじめは伝統歌をうたうには声がきれいすぎるとも感じたが、繰り返し聴くうちに気にならなくなってきた。それにはこの明瞭な発音もあるだろう。明瞭な発音は伝統的ではないかもしれないが、一度切れた伝統を再度受け止めようとすれば、それも必要ではある。
あるいはまた遠く旅してきたうた。ブラジル(〈移民節〉)やハワイ(〈ホレホレ節〉)へ渡った人びとが生んだうたからたち昇る二律背反の想い。苦しい暮らしに耐える哀しみと、その暮らしを生き延びてきたことへの秘かな誇り。故郷はかぎりなくいとおしいが、ではそこへ帰ることを望むのか。そして、幾重にも重なりからみあった、うたにうたうしか表に出す術のない感情の向こうに、日本語にも予想外のしたたかさと柔軟性が備わっていることがにじみ出てくる。それはまた列島本体からは離れて太平洋文化圏に属する小笠原のうた〈レモングラス〉からも伝わる。拍子を整えるためのフレーズの「ねえー」と延ばされる音は、〈ヨイスラ節〉の囃子とも共鳴し、海の豊かさをはらむ。
そして、山や海の仕事のうた。仕事や作業をやりやすくするための労働歌。効率をあげるためではない。というよりも、目の前の作業の効率を上げるためではない。もっと広く、仕事を円滑に運び、ミスを減らし、暮らし全体の「効率」を上げる。同時にここにおれは生きているぞという宣言でもある。〈トコハイ節〉に悲喜こもごもの祭りを響かせる早坂紗知のサックスがすばらしい。そのサックスはまたブラジル版〈五木の子守唄〉で、社会の支配構造に宿るリスクを暴きだしもする。
この世界はまさに豊饒の山河河海
伝統歌はそれぞれ来歴をもつ。いつどこで生まれたかはわからないが、ある時からこうして生き延びてきたという「物語」を背負っている。それを知っている方が、うたが伝えようとするものを呑みこみやすくなることもある。うたい手との邂逅の次第は、うたい手がうたに託したものへ近づく助けともなる。それを適切にうたとともにさし出そうとすれば、文章の量も増え、ライナー・ノートは膨らみ、1冊の本となった。やわらかな絵が、文章だけでは難しい雰囲気をかもしだす。
この絵を描いている渡辺亮は、録音でパーカッションを担当してもいる。このアンサンブルの核はジャズをベースとするピアノで、曲によってダブル・ベースが空間を広げるが、肝は打楽器だ。うたの精妙なニュアンスを、打楽器は適確に、謙虚に描く。例えば、〈移民節〉でのトライアングル、〈花摘み唄〉の背景「ノイズ」、〈ホレホレ節〉の水の音。後者でのメロディを奏でる打楽器はバゥロンかと思ったら、水に浮かせた瓢箪だとライヴで判明した。
わずかに角度をずらしたら顕れたクレオールな日本語世界。一度顕れてみれば、松田も言うように、この世界はまさに豊饒の山河河海ではないか。これを最初の成果として、松田が旅を続け、そこからの便りを